熊野にて

「驚いたな」
熊野の磐座を降りて、神邑で休息をとっていたときのことだった。いつもなら、休息と聞
いたとたんにふらふらとどこかへ一人で行ってしまう那岐が、珍しく千尋の横に寄ってき
てぺたんと座り込んだ。そこで何を言うかと思えば今の一言だ。
「驚いたって、なにが」
「千尋は驚いてないのか?」
いやだから、何に驚いたのか教えてよ。千尋は眉間に人差し指を当てて頭痛をこらえなが
ら、那岐の説明を待った。那岐にはわりとこういうところがある。頭の回転が早いせいか、
それとも一人でいることが多いためか、自分が気づいたことは周りも気づいていて、皆自
分と同じことを思っていると考えるようなのだ。
……風早はともかく、私にそれを期待してほしくないんだけどなあ。
千尋が那岐の考えを読めるのは、夕食に出してほしいメニューくらいだ。そして那岐はき
のこなら何でも喜ぶのだから(逆に言えばきのこ以外の料理はすべて、食べはするが、基
本的にいい顔をしない)、考えを読んだとはえらそうに言えない。
那岐は千尋が無言で首をかしげたままなのを見て、じれったそうに早口で言った。
「磐座の戦いの時の、忍人と遠夜だよ。あの二人、いつの間にあんなに仲良しになったの
さ?お前の知っている十八と呼ばれた土蜘蛛はもういない。遠夜の強さは俺たちが知って
る、とかいってさ。あの言葉で、玄武が姿を現して力を貸してくれたんだから、たいした
言霊だ。本心からの言葉でなければ玄武は動くはずがないし。…驚いたよ、僕は」
「ああ、あのこと」
千尋はようやく納得した。そして今度は、
「そんなに驚くかなあ?」
と首をかしげる。はあ?と那岐は口をぽかんと開けて、また早口でまくし立てる。
「だって、土蜘蛛は大嫌いだって宣言してたのは忍人じゃないか。遠夜もずっとおずおず
してたし、それを見てまた忍人がいらいらしているし、って悪循環でさ。あれでどうやっ
て仲良くなれるんだ?僕は逆に、千尋が驚いてないことにびっくりだよ」
「仲良く、っていうと、なんだか驚くけど。…でも、二人が理解し合うのはあんまり不思
議じゃないから」
「…そうか?」
「うん。…だってあの二人、似てるもの」
「………はあ?」
また那岐がぽかんと口を開けた。今度はあまりにあっけにとられたせいか、まくしたてて
こない。ややあって、右手で額を押さえ、千尋さあ、と、がっくり疲れた声を出した。
「リブに頼んで、眼鏡作ってもらったら。ここは豊葦原だけど、リブなら作れるんじゃな
い?眼鏡」
「どうして眼鏡がいるの?」
目はいいよ、私。弓も、最近は的を外さなくなったよ。えっへん、といばって千尋が言う
と、そういうことじゃない、と那岐は苦虫かみつぶしたような顔をした。
「じゃあ聞くけど、あの二人のどこがいったい似てるのさ?いつも部下をがみがみ叱って
る忍人と、いつもおずおずけが人がいないか探してる遠夜だよ!?見た目も中身も全然似
てないじゃないか」
「見た目の話はしてない。でも、中身は似てるよ」
「だから、どーこーが」
「えっとね。…自分は人に嫌われてると思ってるところ」
「……は…」
三度那岐はぽかんとした。が、今度は何事かを考え込む表情になる。
「遠夜はね、自分が土蜘蛛だから、私たち中つ国の人間はみんな自分を嫌っていると思い
こんでいるの。忍人さんもね、自分の訓練は厳しいから兵たちには嫌われているし、おも
しろいことの一つも言えないから、私たちにはちょっと引かれてると思ってる」
でもほんとはそうじゃないのにね。
「少なくとも、天鳥船に乗ってる人はみんな、遠夜のことを土蜘蛛だから嫌いだなんて思
ってない。大事な仲間だと思ってる。忍人さんでさえそう思ってるよ。それに、忍人さん
の訓練は確かに厳しいけど、忍人さんと一緒に一度でも戦った人はその訓練の意味がわか
るし、狗奴の人たちほどじゃないにせよ、忍人さんのことを信頼するようになってる」
なのに。
「本人だけが、いつまでも、自分は嫌われてると思いこんでるの。そこが二人ともよく似
てる」
「……なるほどね」
那岐は胸元の御統をもてあそびながら、かすかにうなずいた。
「全面的に賛同するとは言いかねるけど、まあ、千尋の言いたいことはわかる」
自分でも納得してるくせに、素直じゃないんだから、と思うが、こういうところが那岐の
那岐らしいところなので、あえて何も言わない。
「感性が似ているから、理解できれば仲良くなれるわけか」
「那岐…。どうしても仲良くって単語を使いたいんだね…」
千尋の苦笑を、那岐は不審そうに見た。
「…そういえば、さっきも、仲良くっていうと驚くって言ってたな。…何?理解と仲良し
ってそんなにちがうこと?」
「ううん、…そんなにちがうことではない、と思うけど…」
那岐はたぶん見ていない。柊が「エイカ」と呼んだ、あの土蜘蛛の青年を見る、忍人の眼
差しを。
「………」
まるで、真っ黒い炎のようだった。
憎しみと怒りと恨みと、マイナスの感情だけで練り上げられた燃料に火をつけて燃やした
ら、あんな視線になるだろうか。激しいのに、どこか虚ろで、何かが壊れて崩れていきそ
うな黒い固まり。
説明のつかないもの全てが、目の前にいる相手のせいだとでもいいたげな目。言葉は理性
を保っていたけれど、理性で制御しきれない感情が眼差しにあふれていた。
「千尋?」
「……すごく、…怖い目だったの。あの磐座での戦いの時。あの土蜘蛛を見ている忍人さ
んの目が、とても怖かった」
怖い、というだけでは表現できない何かがあるのだが、説明できない。あの眼差しを見て
いない那岐には、何をどういっていいのかわからない。
「……」
うつむいている千尋に、那岐は黙っている。
「…あの目を見てしまうと、…忍人さんは、棺を脱いだ遠夜のことは理解してくれても、
土蜘蛛のことはやっぱり大嫌いなのかなあって思う。……でも、棺を脱いでも遠夜が土蜘
蛛であったことは消えないから……」
「…で、本当の意味で遠夜と忍人が仲良くなれるとは思えないわけか」
ふうん、と那岐は鼻を鳴らし、…千尋の肩越しに声をかけた。
「実際のところはどうなのさ、忍人」
「……!!えええっ!!??」
千尋の振り向いた勢いがよほどすごかったのか、珍しく忍人が口元を手で押さえて苦笑を
こらえている。
「い、いつ、いつから…っ!?」
「たった今、そっちからきたところだよ。でも声はどのあたりから聞こえていたのかな?」
「俺の目が怖いという話あたりから」
千尋は酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせている。こらえきれなくなったのか、ついに
忍人がぷっと吹き出した。
「二ノ姫、常世の軍に動きがあった。狭井君のところで軍議を行うので来てほしい」
「あ、は、はいっ」
思わず千尋が直立不動になると、今度は忍人は、こっそり逃げ出しかけていた那岐の襟首
を、猫にそうするようにひっつかんだ。
「…那岐、逃げるな。君もだ」
「僕一人くらいいなくたって、かまわないじゃないかー」
「そうはいかない」
「わかったよ、放せよ。僕は猫じゃないんだぞ」
「猫みたいなものだろう」
といいつつも、忍人は那岐の襟を放した。那岐はあわせを整えて、渋々千尋の隣に並ぶ。
反対側の隣、やや斜め前に忍人が立ち、案内するかのように歩き出す。
「あの、…忍人さん」
千尋がおずおずと声をかけると、
「顔が怖いのは我慢してくれ」
千尋を振り向きもしないで、忍人が言った。
「だれも顔が怖いなんて言ってませんよ!」
忍人の口元がふっとあがる。
…ああ、またからかわれてる…。
千尋が額を押さえていると、
「…二ノ姫」
かすかな声で、忍人が言った。
聞こえるか聞こえないかの声。もしかしたら、千尋の隣にいる那岐には聞こえないかもし
れないくらいの声で。
「…俺がどうしても許せないと思うのは、あのエイカという土蜘蛛だけだ。……以前は、
土蜘蛛という一族は皆、信用ならんと思っていたが、遠夜に会って、遠夜を見て、その考
えは間違いだとわかった。だから、土蜘蛛だからといって、一様に否定する気はもうない。
遠夜は我々の大切な仲間だ。信頼しているし、彼に何かあれば、俺は他の誰かが怪我をし
たのと同じように心配するだろう」
つづる声は穏やかで、千尋をほっとさせる。
「…エイカにも、彼なりの正義があるのだと、さっきアシュヴィンから聞かされた。…も
っとも、そう聞いても、すぐにはあの男を許す気にはなれないが……」
千尋は忍人の眼差しを見ていた。斜め後ろからだから、はっきりとは見えない。……けれ
ど、あの熊野の磐座で見せたような、うつろな黒い炎はもう見えなかった。
「…だが、…君を怖がらせたのは、…すまなかった」
ぼそり、と告げられたその言葉に、なぜかほおが熱くなった。
…忍人をずるいなあと思うのはこんなときだ。いつもは厳しいことばかり言って、一挙手
一投足にみなをびくびくさせるくせに、時々ぽろりと素直で優しい。照れくさそうに耳を
赤くしているのを見ると、照れているのはこっちだ、と照れ隠しに唇をとがらせたくなる。
狭井君の屋敷の入り口で、遠夜が手を振っている。振り向けば、いやそうに、それでも逃
げずに那岐がついてくる。
…みな、変わった。でも、何が変わっても、みなが大切な仲間ということは変わらない。
…どうか、誰一人欠けずに、このまま無事戦いが終わりますように。…戦いが終わって、
新しい国を作るときには、みんなと一緒に、みんなが幸せに暮らせる国を作っていきたい。
それが私の願い。

天鹿児弓が何かを知らせるようにかすかに弦鳴りしている。……足早に屋敷の中へと急ぐ
千尋は、その知らせに気づかなかった。