クリスマスツリー

「今って、12月くらいかなあ」
書く手を止めて、千尋が言った。
その隣でぼんやり竹簡を繰っていた那岐は顔を上げて、
「まあそうだろうね。…なんで?」
と聞く。
「うん、…クリスマスって、こちらの暦だといつかなあと思って」
「はあ?…クリスマス?」
中つ国は月の満ち欠けを基準にした太陰暦で日や月を区切る。千尋が暮らした世界の太陽
暦に日付を変換できるのは那岐と風早だけだ。
だが、那岐は鼻を鳴らしただけで答えてくれなかった。
「…那岐?」
「クリスマスの日付を知って、どうするわけ?」
「どうって、…お祝いしたりとか」
「……あのさあ」
那岐のため息。
「クリスマスって、何の日だ?千尋」
「え?…ええと、ケーキ食べてお祝いしたり、チキン食べたり、お部屋を飾ったり…?」
「そう。何のために?」
「それは、イエス様の誕生日だから…」
千尋は最後の方は口ごもった。
「…だろ?…異教の神様の誕生日。龍神の誕生日は知らなくて、お祝いもしないのに、キ
リストの誕生日は祝うって、まずくない?」
「…う」
「どうせもうすぐ新年だ。年越しの祝いや行事で、ごちそうも出るし騒げるんだから、も
うちょっと我慢すれば?」
「……うう。………はい」

「…そりゃ那岐の言うとおりだけど!」
そのやりとり以降、千尋は人目のないところでは拗ねまくりだった。
「もうちょっと言い方ってものがあると思うわ、言い方!」
むしゃくしゃを、寝台の上掛けをぱしぱし叩くことで紛らわしていた千尋は、
「…荒れているな」
突然かけられた静かな声に飛び上がった。
「忍人さん!」
将軍は目尻に苦笑をにじませながら、それでも口元の笑いは片手で隠し、落ち着いた声で
言った。
「…失礼。部屋の外から声をかけたが、返事がなかったので」
在室の気配はあったから、と言われて千尋は赤くなった。
声をかけられたことに気付かないくらいぷりぷりしていたのか、自分は。
赤面する千尋を礼儀正しく無視して、忍人は冷静に言った。
「これから出られるか?」
「…これから?」
千尋は窓の外を見た。冬の日は暮れるのが早い。もう西の空は赤くなりかかっている。
「そう。…今日のこれからでなければ意味がない、らしい」
「……意味?」
忍人は笑って、それ以上は言わず、采女を呼んで上から羽織るものを持ってこさせた。そ
の肩衣で千尋をくるむと、
「行こう」
労るように手をとって、部屋を出た。

玉垣を抜けて、忍人はまっすぐ東を目指す。
「どこまで行くんですか?」
「すぐだ。香久山まで」
それは確かにごく近い場所だが、……でもなぜ。
考えたことが伝わったわけでもないだろうが、千尋のやや斜め前を歩きながら忍人は少し
困った顔で振り返った。
「俺も、そうしろと言われただけなんだ。詳しくは聞かないでくれ」
「そうしろって、…誰に」
その問いには、笑って答えない。山というよりは丘というたたずまいをゆるゆる登ってい
くと、やがてぽかりと頂上に出た。
何もないそこに、ぽつりと大きい杉の木が一本生えている。
「…来たね」
杉の手前で笑っているのは風早だった。…千尋が駆け寄る。忍人はその後ろからのんびり
歩いていく。
「風早が呼んだの?」
「いや、…呼んだのは俺じゃないけど。…俺は、…そうだなあ、確認役?」
「……確認?」
ふふ、と風早は笑って、
「ほら、見て。…ちょうど日が沈む」
指をさされて、二人が思わず西を振り返る。確かに、大きな赤い夕日がちょうど畝傍山に
沈んでいくところだった。美しい眺めだが、わざわざこれを見せたかったのか、と、千尋
は振り返って風早に問おうとして、…息をのんだ。
真っ黒い影だった杉の木の天辺に、大きな星が一つ、輝いている。
「……明星…?」
他に考えられない。天狼星ではあそこまでまぶしく輝くはずがない。…いや。
「いや、明星だとしても、あの輝きは…」
そのつぶやきは忍人だった。確かに、金星だとしてもまぶしすぎる。
「…穂垂れ星?」
忍人が首をかしげながら彗星の古名を挙げたとき、…星がはじけた。
「…!」
きらきらと飛び散った星が、杉の木に舞い降りて、とどまり、光る。……まるで、…まる
で。
「………クリスマスツリーだわ」
「…は?」
問い返したのは忍人だ。が、その瞬間までずっと黙って二人のつぶやきを聞くだけだった
風早が、ふふっと笑って、ぽん、と千尋の頭に手を置いた。
「はい、ご名答」
千尋は、がば、と風早を振り仰いだ。
「…那岐ね?」
「もちろん」
風早は苦笑している。
「鬼道でね。…ちゃんとクリスマスツリーに見えるかどうか、さっきまで予行演習してた
んだ。俺は、その確認役」
最後まで話を聞かずに、忍人がすっと歩き始めた。その背中に、
「ばてて寝てると思うよ」
風早が声をかける。忍人は振り向かずにただ片手を挙げてみせた。わかっている、と。…
だから行くのだと、背中はそう言いたげだった。
「…風早…」
千尋が少しおろおろした顔を彼に向けると、優しい目が千尋を見つめ返した。
「その顔だと、…もうわかってるね?…那岐がどうしてこんなことをしたか」
「……」
わかる。…クリスマスの一件以来、自分が拗ねていたからだ。…人前では表さないように
していたが、二人きりになると露骨につんけんしてみせたりしていた。
「…わかったら、機嫌を直してやって。あれで結構、デリケートだからね、那岐。君と忍
人に冷たくされると応えるみたいだよ。君がつんけんしていたから、忍人も那岐が何かし
たんじゃないかと少しつれない対応が続いてて」
だから忍人も、寝てる那岐を拾いに行ったんだろう。…悪いと思って。
千尋が思わず駆け出そうとしたとき、わいわいという声が後ろから聞こえてきた。…布津
彦や柊、道臣の声。遠夜が木を見てあげた歓声も。
ああ、来た来た、と風早はのんびりつぶやいた。
「みんなにも見せるけど、まずは君と忍人に見せたいってね。時間差で呼んだんだ。彼ら
の相手は俺がするから。…行ってやって、千尋」
こくん、とうなずいて、今度こそ千尋はかけだした。身軽に木によじ登った忍人が、軽々
と彼の体を担ぎ下ろしてくるところだった。肩衣を翻し、駆ける彼女を、風早は笑って見
送る。それからもう一度、大きな杉の木をゆっくりと見上げた。
空中の星を集めたような、そのきらめきを。