黒麒麟

風早が楼台から出ようとすると、ちょうど堅庭に入ろうとしていたサザキが、顔を見て、
お?、と言った。
「風早か。…ずっとここにいたか?」
「いましたよ。…なぜです?」
「いや」
サザキは少し首をひねって。
「さっき、守り神さんの磐座に入っていくところを見たように思ったんだが。…気のせい
か。誰か別の奴を見間違えたかな」
変なこと言ってすまん、と言って、サザキは堅庭に入っていった。
風早は穏やかなほほえみでそれを見送ってから、船内の方へ足を向けた。人気がない廊下
を、表情のない顔で歩く。…もし誰かがその風早の顔を見れば、作り物の人形かと思った
だろう。幸い、船内の廊下をうろうろしているものは、誰もいなかった。
風早は迷わず朱雀の磐座に足を向けた。扉を押し開けようとして、少し顔をしかめる。…
が、無言で扉に触れ、軽く何かつぶやく。その言葉に応じるように、かすかな光が扉を覆
い、扉がひとりでに開いた。
「……」
磐座の前に、一人の男がいた。
風早と同じ少し青みがかった髪。白い衣。背格好もうり二つだが、振り返るとその肌の色
だけはアシュヴィンと同じでやや褐色を帯びていた。
彼は風早を見ると、無言で扉をあごで示す。
風早は肩をすくめて、口の中で再び何かを唱えた。扉が金色の光を帯びて、閉ざされる。
磐座は再び結界に覆われた。
「…君が人型をとるのは珍しいね」
結界を張り終えて風早は男に向き直った。
「……黒麒麟」
彼はゆるりと首を回した。風早は少し顔をしかめる。
「…しかし、人型はいいとして、なぜ俺と同じ姿になるんだ。紛らわしいじゃないか。…
仲間が俺と間違えていたよ。…君ならさぞ美しい女性の姿になれるだろうに」
黒麒麟は元々陰陽で言えば陰を司る生き物だ。陽である男性の形を取るよりも陰である女
性の形を取る方が自然な話だった。
「この船内に女性はほとんどいない。その姿で歩けば目立つ。…お前の姿の方が目立たな
いと思った」
淡々とした彼の言葉を、それはまあ、と、眉をしかめながらも風早も認めた。
「…まあ、次からは考えよう」
「そうしてくれると助かるな」
風早は首をすくめてから、ああ、そうだ、とつぶやいて微笑んだ。
「ずっと君に礼を言おうと思っていたんだった。…ありがとう」
「…?」
怪訝そうに、黒麒麟は眉をひそめる。
「忍人に凝っていた陰の気を食らってくれたのは君だろう。…おかげで、ここのところず
いぶん調子が良さそうだ。俺が食らうのは陽の気だから、俺では何の助けにもなれなくて、
内心歯がみしていたんだ。…助かったよ」
なんだそんなことか、と言わんばかりに、黒麒麟は肩をすくめた。
「私が多少食ったところで、あそこまで陰の気をためていては焼け石に水だろう」
それから冷たい声で付け加える。
「それに、削られた魂が戻るわけでもない」
風早は苦しげに眉をひそめたが、それでも微笑みは消さなかった。
「いいんだ。…元気な顔が見られるだけでも」
「体がつらい方が、戦わせずに済むだろう」
「つらいから前に出ないって、…もし忍人がそういう性格だったなら、今頃とっくに破魂
刀に食らいつくされているさ。誰が止めても彼は戦うんだ。それなら少しでも体が楽な方
がいい」
黒麒麟は風早の言葉の途中から彼に背を向け、朱雀の磐座に向き直った。風早との会話を
打ち切るかのようなそぶりだったが、風早はあまり気にした様子はなく、静かに話し続け
る。
「…しかし、驚いたな。…君は人嫌いだと俺は思っていたんだよ。常世に降りたのだって、
黒龍の命だからしかたなくだっただろう。…それが、アシュヴィンを背に乗せて、忍人の
気を食らって。…どういう心境の変化かな」
黒麒麟は背中を向けたまま、
「…常世の皇子に近づいたのも黒龍の命だ」
と言った。
「白龍が自分の神子の守護に常世の皇子を選んだことを、黒龍は立腹している。だから私
は、彼を見張るために遣わされた。…陰の気は、空腹故食らったまでのこと」
風早は、黒麒麟が見ていないのをいいことに、瞳をすがめて少しからかうような顔になっ
た。
「君が、この短い人の世で過ごす間に、空腹になるとは俺には思えないけどなあ」
顔は見えなくとも、声の色には気付く。振り返った黒麒麟は無表情の中に剣呑な光を秘め
た目だけ輝かせて、ぎろりと風早を見た。
風早は動じない。春風のようなのほほんとした笑顔で、黒麒麟に無邪気に問う。
「人の世はどうだい、黒麒麟?…楽しいだろう?」
「別に。…穢れの気が濃くて息苦しいだけだ」
風早が微笑むと、黒麒麟がまた顔を険しくする。
「誰もが自分と同じことを考えると思うのは、お前の悪い癖だ、白麒麟」
「ああ、ごめんごめん。そうだね、君はいつも俺にそう言っていたっけ」
でもね、と風早はのほほんとした態度を崩さないまま言う。
「俺は、君が思うほど、俺と君の考えは乖離していないと思うんだよ、今でも」
「……」
無言の黒麒麟に、そんな怖い顔をしないでくれないか、自分のそんな怖い顔、自分では見
たことないよ、とわかったようなわからないような適当なことを言ってまた笑う。
それから不意に、彼にはとても珍しい、…少し意地の悪い顔をした。
「相変わらずだね」
黒麒麟はもう無言を貫くことにしたらしい。何も反応しないし何も言わない。
風早は気にかける様子もなく、勝手に話を続けた。
「君は昔から、図星をつかれると機嫌が悪くなる。…変わっていないね」
俺にはわかるよ。…意地の悪い顔のまま、風早は言う。
「君は俺と同じだ。…常世の皇子を愛おしいと思い始めている。…小さい人の子に過ぎぬ
彼を」
「……!」
堪忍袋の緒が切れたと見える黒麒麟が気を爆発させようとした、その寸前に、威厳ある声
がぴしりとその場を裂いた。
「…諍うのなら、去れ」
朱雀だった。
「黒麒麟は、濃い人の気に耐えかねた故神気を吸いに来たと言っていたが、お前は何用だ、
白麒麟」
「ごめん、朱雀。…俺は、俺に似た奴が誰なのかを確認しに来ただけだよ」
「ならばお前が去れ。…この場で諍いは許さぬ」
風早はお手上げ、の仕草をした。
「ああ、すまなかった。俺が去る。…黒麒麟、…からかって悪かった」
「………」
無言のままやはり答えない黒麒麟に、風早はかすかに笑って背を翻し、磐座から出て行っ
た。
…が、黒麒麟が息をつく暇はあまりなかった。

風早は、こちらに向かって歩いてくる人影を見ておや、と眉を上げた。
黒衣の青年はまどいない足取りで歩いてきて、風早と視線を交わし、挨拶代わりのように
唇に不敵な笑みを浮かべてみせて、そのままいってしまった。
彼の姿が消えた先を見送って、風早は笑った。
普段、近づくこともない場所だろうに。
彼にはわかるのだ。
自分が、千尋がどこにいても見つけられるように。彼も、黒麒麟がどこにいても見つけ出
す。

「こんなところにいたのか」
 呼びかけられた声に、風早の姿をしたままの黒麒麟ははたと振り返った。
風早は出て行くときに結界を解いていったのだ。黒麒麟は自分の激情を押さえることに追
われて、結界を張り直すのを忘れていた。
アシュヴィンはつかつかと磐座に入ってくると、
「お前がいつもの場所にいないと、リブが慌てていた」
まっすぐに黒麒麟を見て首をすくめた。
「…俺が誰だか、わかるのかい、アシュヴィン?」
黒麒麟がわざと風早めいた言葉で話すと、どこか愛想のない表情だったアシュヴィンが破
顔一笑した。
「本物とはさっきすれ違ったが、本物を見かけていなくても気付いた自信はあるな。ずっ
と一緒にいるんだぞ?……わかるさ、黒麒麟」
ただ、と言って、彼は風早の姿を上から下までじろじろと見て、かすかに嘆息する。
「…その姿はちょっとぞっとしないな」
黒麒麟は自分の姿を見下ろして、首をすくめた。確かに、この風早とうり二つの人型は、
アシュヴィンとしてはうれしくなかろう。
元の姿に戻ろうか、と思いかけて、…ふと、悪戯心がわいてくる。
「…では、これでどうだ?」
黒麒麟は首を一振りした。一瞬で姿が変わる。流れるような金の髪、褐色の肌。深い紅い
瞳の美女に。陰陽の理に即したその姿は、風早の姿よりもよほど身と心になじんだ。
「ああ、その方がよほどいい。いつものお前らしくなった」
アシュヴィンがくっきりと笑う。
「いつもの私は人型などとらない」
「もちろんだ。俺以外の誰にも見せるなよ?うっかりかっさらわれては困る」
わがままな子供のような言い方に、普段あまりアシュヴィンに対して感情は見せない黒麒
麟も、かすかな苦笑を浮かべる。
その苦笑をうれしそうに見て、アシュヴィンはゆるりと話し始めた。
「なあ、黒麒麟。…聖なる獣のお前の時間からすれば、俺の一生など瞬きほどのものだろ
う。…だから、俺が死ぬまでそばにいろよ」
美女の姿をした黒麒麟は、ゆるり、と首を回した。肯定でもなく、否定でもなく。金の髪
がさらさらと流れる。
「神がそれを許すなら」
「許すさ。お前が望めばな」
「何故そう思う」
じっと人の子の瞳をのぞき込むと、笑みを含んだ勝ち気な瞳が自分を見返す。
「その姿のお前に請われて、許さぬ男がいるものか」
「…神は男ではない」
「女でもないんだろう?ならば許す。…絶対だ」
こらえきれず、黒麒麟はくっくっと声に出して笑った。
「…お前には、…かなわん」
白麒麟の言うことなど、絶対に認めたくはないが。
だがこの小さき人の子に、言い負かされる自分がいることは事実だ。
ああそうだ。…あの子の気を食らったのも、空腹だったからではない。
陰の気をまとって、それでもすっくと立っていた。その清々しさを得がたく感じたから。
そして、その強さを好ましく感じる皇子の思いに気付いていたからだ。
人の世が滅されようが滅されまいが、私の知ったことではないが、それでも。
…その命の糸が切れる瞬間までは、…共にいようか、皇子。
たとえ神がそれを命じなくとも。
「まだここにいるか、黒麒麟?」
「いや、共に行こう、…だが」
もう一度黒麒麟は首を振った。…いつもの獣の姿に戻って、アシュヴィンの傍らに鼻面を
寄せる。アシュヴィンはそれを見て満足げに笑った。
「……ああ、そうだ。…あの姿は誰にも見せるなよ。リブにもだ」
本当に子供っぽい言い方に、黒麒麟はまた少しだけ笑う。アシュヴィンと足並みを揃えて
磐座を出る瞬間、朱雀のかすかに笑う気配が、黒麒麟のたてがみを撫でていった。