今日は雨降り

「ねえ千尋、本当に大丈夫?」
心配そうな友達に手を振って、千尋は一人先に電車を降りた。彼女の降りる駅は次の駅だ。
電車の中から手を振る友達を、同じように手を振り返しながらホームで見送る。…雨はず
いぶん本降りになってきた。
「…失敗したなあ」
少し首をすくめて千尋はつぶやく。
朝出てくるときは雲一つない晴天で、千尋は雨など疑いもしなかった。映画を見終わって
電車に乗ったときも、少し曇ってきたかな、という程度だったのだ。それが、電車に乗っ
ているうちにぽつりぽつりと降り始めて、ついには本降りになってしまった。
千尋が肩から提げた小さなバッグには、雨具の用意はない。お財布と、ハンカチと、いろ
んなものが入ったポーチが一つと携帯電話。手に持っている紙袋はおみやげに買ったプリ
ンが4つ。
「…電話、してみようかなあ」
風早は土曜日の今日も仕事だが、那岐は家にいるだろう。忍人も昼はバイトだが、夕方は
食事当番なので早めに仕事をあがると言っていた。もう帰ってきている頃合いだ。家に電
話をかければ、どちらかが出てくれるだろう。
…そう考えてから、千尋は首をぶんぶんと横に振る。
いやでも、那岐はめんどくさがりそうだし、お兄ちゃんは食事を作らなきゃいけないし。
頼るのは良くない。雨が少し小降りになるかもしれないし、駅で少し待ってみよう。
そう思い直して、千尋はバッグにもう一度携帯を放り込み、改札を抜けた。
小さな駅なので、あまり駅に付随する施設はない。千尋と同じように、電車を降りて雨に
困っている人が何人かと、慌てて駅にやってきて今の電車に間に合わなかった人。…その
どちらでもなさそうな青年が一人、切符売り場の横ですらりと立っていた。
まっすぐにこちらを見ているその顔を見て、千尋はぽかんとつぶやく。
「…お兄ちゃん」
忍人は無言で、花模様の傘を千尋に差し出した。
「…どうして?」
本当に驚いて目を丸くしている千尋を見て、忍人はくすりと笑う。
「那岐が。…どうせ千尋は天気予報も見ずに、傘も持たずに行っているから、迎えに行っ
てやれば、と。当たりだったな。電車の時間までぴったりだ」
耳を赤くして、千尋は傘を受け取る。持とうか、と手を差し出してくれたので、素直にプ
リンの紙袋を忍人に預けた。
「その那岐は?」
「めんどくさいからまかせたと言っていた。家で、俺の代わりに食事を作ってくれている。
…食事を作る方がよほど面倒だろうに。素直じゃない」
いやそれはちがう、と千尋は思った。
「…那岐は単に、私も自分もいないところで、お兄ちゃんが料理を作るのが不安なだけだ
よ…」
「…?どういう意味だ?」
「ううん、何でもない」
不思議そうに目を丸くする忍人に、ぶんぶんぶんと首を横に振って、行こう、と千尋は促
した。うなずいて、忍人は先に歩き出す。いつもきびきびと早足で歩く彼だが、千尋と二
人きりの時はちゃんと意識してゆっくりめに歩いてくれる。…もっとも、最初からこうだ
ったわけではない。共に過ごす年を重ねて、少しずつ覚えていってくれたことだ。
駅を出て傘を差す。…雨が傘の上でいい音を立てる。
「結構降るね」
「せっかく出かけた日がこんな天気になって残念だったな」
千尋を車道から遠い側へ誘導しながら忍人が歩く。
「うん、でもお兄ちゃんと那岐のおかげで濡れずにすんだし」
千尋はそっと空を見上げた。一面の、灰色。
「それに、雨の日は、嫌いじゃないな。むしろ好きかも」
傍らを歩く忍人が、少し驚いた声で
「初めて聞いた」
とつぶやいた。
「そう?」
「ああ」
千尋は、そういえば言ってなかったっけ、と首をすくめた。
「だって、雨の日は夕焼けが見えないでしょう?」
「…夕焼け?」
「うん、…私、夕焼けは嫌い。燃えるような夕焼けを見ると、不安になる。……なんだか、
…何か、とても大切なことを忘れているような気がして」
「…大切なこと?」
「…うん。…まあほら、私、こっちに下宿する前のことをほとんど忘れちゃってるから、
きっと何かその頃のことなんだと思うけど」
何かなー。
「そもそも私、なんで昔のこと忘れちゃってるのかな。…何かとても怖いことがあって、
それで思い出せないのかな」
ほら、よく言うでしょ。何か事件に巻き込まれた人が、その怖さを忘れるために、事件そ
のものを全部忘れちゃうって。
「私もそうなのかなー、って、思うことがある」
千尋が話すとき、忍人は余り口を挟まない。相づちをいれることさえもない。ただ、話を
聞いてくれていないのではと不安になることもない。振り仰げば、いつだってとても真面
目な瞳で、じっと千尋を見ていてくれる。
今もそうだった。千尋がそっと上を見上げると、静かな闇夜の海のような、黒いのにどこ
か底の方が青く光って見える不思議な色の瞳が、じっと千尋を見ていて、促すようにそっ
と首をかしげた。
「……だったら私、…思い出さない方がいいのかな」
その忍人の瞳に力を得て、千尋は今まで誰にも言ったことのない思いをぽつりと口にした。
「今のままでもいいかな。昔のことを思い出せなくても、生きていけるし。風早も、那岐
も、お兄ちゃんもそばにいてくれる。…今の自分が、一番好き」
えへへ、今の自分しか知らないのに、今の自分が一番好きっていうのも変だね、とおどけ
て笑うと、そっと忍人が千尋の頭に手を載せた。ぽんぽん、と軽く二回撫でて、彼はふと
千尋から視線をそらし、まっすぐに前を見た。
「……それでも、…いつか必ず、千尋は思い出す」
その言い方はどこか予言めいていて、千尋をどきりとさせた。
「……どういう意味?」
忍人はだまって肩をすくめる。
「…お兄ちゃんは、私が何を忘れてるか、知ってるの?」
その問いには、忍人はすまなそうな顔をしてゆるりと首を横に振った。
「…君と一緒に暮らしていたわけではないから」
「…そう、だよね」
そう、それは確かだ。今日から一緒に暮らす那岐と忍人ですよ、と、風早に紹介された日
のことは、千尋もはっきり覚えている。初めて会う二人が二人とも、どこか仏頂面だった
り無表情だったりして、少し緊張したことも。
あのとき確かに二人を初対面だと感じた。だからその日まで、私は彼らと出会ったことは
なかったのだ。
「…でも、千尋はいい子だから」
考え込んでいると、突然頭上からてらいのないほめ言葉をもらって、千尋は思わず真っ赤
になった。
何いきなり、と抗議しようとして、口を閉ざす。まっすぐ前を見ている忍人の横顔が、ひ
どく寂しそうに見えたから。
「俺たちに出会う前に、君を慈しんだ人が必ずいる」
千尋ははっとなった。
そうだ、自分が忘れているのは日々の思い出だけではない。この生活をはじめる前に自分
が共に暮らしていたはずの、家族のことさえ忘れてしまっているのだ。
もしかしたらその家族は今は失われて、自分は天涯孤独の身の上かもしれない。だからこ
うして、風早たちと暮らしているのかもしれない。けれど過去に自分と暮らした家族はき
っといたはずで。
「怖いことも思い出すかもしれない。…だが、大切な人のこともきっと思い出せる」
そういう忍人の顔が寂しそうなのは、…その頃の自分と暮らしていなかったことを寂しい
と感じてくれるからだろうか。
「…すぐでなくていいから、…いつか、思い出してあげるといい」
「……うん、わかった」
素直にうなずくと、忍人の瞳が再び千尋に戻ってきて、柔らかく笑んだ。つられて微笑み
返しながら、千尋はふと、不安になった。
私が全てを思い出してしまったら、…この暮らしはどうなるんだろう。
聞こうとして、…見下ろしてくる忍人の真面目な表情を見ると、なぜかその問いを言い出
し得なくなってしまった。
…それを聞いてしまうと。…それこそ、今のこの暮らしが、ここで断ち切られてしまいそ
うで。
二月の部屋という昔話を、なぜか不意に思い出す。この部屋だけは開けないでくださいと
言われていた男が、好奇心に負けてその部屋を開けてしまって、それまでの夢のような生
活を失ってしまう話だ。
自分の質問は、してはならないと言われたものではない。だが必要以上の好奇心は、今の
この暮らしを壊してしまう。…なぜか不思議な確信を持って、千尋はそう思った。
だから、…問うことはやめて、代わりに千尋はこう言った。
「…ねえ、お兄ちゃん。お願いが一つあるの」
「……?」
「私がいつかいろんなことを思い出しても、…お兄ちゃんでいてね」
「千尋がそれを望むなら」
優しい答えはいかにも妹に甘い兄のそれなのだが。千尋は少しだけ首を横に振った。
「…お兄ちゃんて、私がそう呼ぶことを許してくれるだけじゃなくて。…私が何を思いだ
して、本当はどんな子でも、……お兄ちゃんはそのまま、変わらないでほしい」
忍人はかすかに目をすがめた。感情を害したのかと思ったが、どうやらそうではないらし
い。…共に過ごして、少しは忍人の無表情からも感情を読み取れるようになってきた。こ
れはたぶん、なんだそんなことか、という顔。
案の定。…千尋の頭にもう一度、ぽん、と忍人の手が降ってきて。もう一度頭を撫でられ
る。今度はさっきよりも少し長かった。
「変わるわけがない。…千尋は、いい子だから」
……何回言われても、その言葉はどうにも照れる………。
千尋が首筋まで真っ赤にしてうつむいていると、不意にバッグの中で携帯が震えた。映画
館と電車の間マナーモードにしていて切り替えるのを忘れていたのだ。
家からだ。那岐なら普段携帯で電話してくるのに、と首をかしげながら電話に出る。
「はい、もしもし?」
「千尋?今どこ?」
「今?お兄ちゃんに迎えに来てもらって、もう耳成山の登山道の曲がり角の近くまで来て
るけど」
「ああもうやっぱり!!」
素直に応えると突然那岐が叫んだ。…叫んだ声は電話から漏れたのだろう。忍人がはっと
した顔になって口元を手で押さえた。
「…何?」
「もしかして友達に傘に入れて帰ってきてもらうとか、行き違いになったらまずいから、
千尋に会えたら僕に一度電話しろって、忍人に僕の携帯持たせたんだ。電車二本分くらい
の時間は過ぎたから会えたならそろそろ電話が入るはずなのに全然入らないから」
忍人は自分の携帯を持っていない。好きじゃない、と言って持ちたがらないのだ。だから
那岐は自分の携帯を持たせたのだろう。
「………忘れてた」
那岐の電話の言葉が逐一聞こえたわけではないだろうが、ある程度内容は察したのだろう。
珍しくすまなそうな顔で忍人がぼそりとつぶやく。その顔がかわいくて、千尋は思わず笑
い出してしまった。
「…何?…何笑ってるの、千尋」
「何でもない。…おみやげにプリン買ってきたよ、那岐。シュシュのやつ。機嫌直して?」
脇から忍人が声をかける。
「…那岐に、忘れていてすまないと伝えてくれ、千尋」
「はぁい。…あとね、お兄ちゃんが忘れてた、ごめん、って」
ちょっと言葉を勝手に変換して、千尋が伝えると、電話の向こうで那岐も少し笑う気配が
した。けれど声だけはしっかり怒ったままだ。
「プリンはともかく、忍人には何か埋め合わせしてもらうよ。…まあいいや、夕食出来て
る。早く戻ってきなよ」
じゃあね、と電話は切れた。千尋はバッグにもう一度携帯を放り込んで、なんだか少し情
けない顔をしている忍人を見て、また笑う。
「那岐、怒ってたよ」
「……ああ」
「早く帰ろう。…お兄ちゃん」
もうすぐ家の灯りが見えてくる。私の大切な家族が待つ家。雨ににじんで、オレンジ色の
門灯が、少し柔らかい優しい色になる。
ほらね。雨の日は嫌いじゃない。隣には、私を迎えに来てくれた人もいる。今の自分が、
私は大好き。

私が何を思いだしても。何がその先に待っていても。私たちさえ願っていれば変わらずに
いられると、…そのときの私は信じていた。