兄弟

中つ国の軍は、忍人が率いる狗奴の兵と、岩長姫直下の一軍を除くと、高千穂や筑紫でゲ
リラ的に戦っていた者たちや、同じく高千穂や筑紫で二ノ姫に心酔して志願して軍に加わ
った新兵がほとんどだ。常世の軍と真っ向から戦うにはいささか心許ない兵たちばかりで、
出雲に入ってからの忍人は、日々兵たちの鍛錬に追われていた。
兵たちからは、訓練の厳しさから、こっそり鬼将軍と呼ばれている。もっとも、忍人がす
でにその呼称を知っているので、こっそりとは言えないかもしれない。なんと言われても
忍人は気にならなかった。嫌われて軍から離れるなら、その方がいいとすら思っていた。
戦い慣れしていない部下たちを連れて戦場に出て、彼らの命が消えるのを目前で見なけれ
ばならないことに比べれば、嫌われる方がよほどいい。

いつものように落日ぎりぎりの時間まで鍛錬をして、天鳥船に戻ってきた忍人は、堅庭と
楼台に続く通路でばったりと道臣に出くわした。
「ああ、忍人、お帰りなさい」
道臣が、いつものくせの伏し目がちな笑顔で声をかけてくる。いつも手に山と抱えている
竹簡は、今日は見あたらない。彼の得意分野は後方支援や兵站の調整で、いつ見ても何か
のやりくりに苦労しているが、今日はちがうことで困っているようだ。忍人に声をかけな
がらも、彼の背後をちらちらと道臣の視線がさまよう。
「何か探しものでも?」
問うと、驚いたように目が少し見開かれた。そして少し笑う。
「千里眼ですね」
…自分で千里眼なら、柊や風早は化け物か、と思いつつ、忍人は道臣に先の言葉を促すよ
うに少し首を揺らした。
「布都彦を見かけませんでしたか?そちらの兵たちと一緒に鍛錬では?」
「いや、こちらでは見かけませんでしたが」
10も年上の道臣に丁寧語で話しかけられて、忍人はつられて丁寧口調になった。
「そうですか」
「…布都彦に何か?」
「…いえ」
道臣は苦笑している。
「昨晩からどうも様子がおかしくてね。真っ赤になって帰ってきたと思ったら、夜中に『修
行して参ります!』と飛び出して、今朝も朝から『私は鍛錬が足りません!』と叫ぶなり
部屋を出て行って、昼食にも見かけない」
「なんですか、それは」
「いや、何が起こったのかは、夕霧殿からだいたいうかがったのですがね」
…その話によると、どうやら、布都彦が目にゴミかまつげかが入ったところを、二の姫が
とってやっていたらしい。それを見かけた夕霧が、接吻でもしているのかと思った、と軽
い気持ちでからかったら…。
「…なるほど」
忍人は額を押さえた。
「夕霧殿にも困ったものですが、それはそれとして、鍛錬もあまりすぎるとよくない。特
に食事や休息をとらずにし続けるのはね」
「ごもっともです」
「倒れては元も子もありませんからね。…で、どこかでふらふらになっていないか、少し
探しているというわけです」
「了解しました。見かけたら休むように言っておきます」
「よろしくお願いします」
道臣は楼台の方へ行ってしまった。他の者にも同じように頼もうとしているのだろうか。
それとも、探しあぐねて楼台を見に行くだけかもしれない。

忍人が、自室へ戻る前に磐座へ足を向けたのは偶然だった。神のいます場所であるからか、
この場所は空気が清廉で、心を落ち着けるにはとてもいい。体の鍛練は十分すませた後だ
ったから、少し瞑想でもと足を踏み入れたら、瞑想の先客がいた。
「…布都彦」
人の気配にまったく気づいていなかったのか、忍人の声を聞いた布都彦は飛び上がって驚
いた。
「…かっ…」
声も出ない。
「驚かせたようだな。すまなかった」
さすがに忍人も素直に謝る。瞑想中に突然背後から声をかけられれば、確かにびっくりす
るだろう。
「…っ、いえっ…」
いえ、と言いつつもまだ鼓動が収まらないのか、布都彦は胸を押さえている。……いや、
ことの経緯からすると、別の理由でどきどきしているのかもしれない、と忍人は思った。
「道臣殿が探していた」
「…え」
どうでもいいが、先ほどから布都彦はまともな言葉が出てきていない。
「昨夜も今日も、鍛錬といって食事もろくにとらずにいるそうだな。そんな鍛錬は体によ
くない」
「は、はい。お言葉、肝に銘じます」
…いや、こんなことは別に肝に銘じるほどのことではないぞ。
「瞑想が十分でなければ、後でもう一度来るといい。…とりあえず、道臣殿に顔を見せて、
食事をとって、安心させてさしあげてはどうだ。」
「はい」
素直に返事をしたので、すぐに磐座を出て行くかと思ったら、布都彦はなんだか忍人を見
ながらもじもじしている。
「……どうした?」
「…は、はい。…あの、こういう機会はあまりないので、そのっ…」
「……?」
「…他人の耳がないところで葛城将軍とお話しできる機会が、です」
少し落ち着いてきたらしい。布都彦はいつものはきはきした言い方で言い直した。が、ま
た口ごもる。
「…その…お時間さえよろしければ、少し伺いたいことが…」
「……かまわないが」
剣技や鍛錬の方法のことではなさそうだ、というのはすぐに見て取れた。だが、それ以外
で布都彦が自分に聞きたいことというのはなんだろう。……まさかとは思うが、恋愛に関
してだろうか?……それは自分に聞かれても困るのだが…。
忍人が一人で勝手にぐるぐるしている間、布都彦もどこから訪ねたものかと思案している
らしく言葉を探して目をうろうろさせていた。
まさか本当に、恋愛のことか?
忍人がとりあえず最悪の可能性を考えてみたとき、ようやく布都彦は心を決めたらしく、
単刀直入にこう聞いてきた。
「兄のことを教えてください」
……。
最悪の可能性ばかり考えていた忍人は少し虚を突かれた形になった。
「…あ」
「…兄です。…私の兄の、羽張彦を、…覚えて、おいででしょうか」
「…ああ、それは」
忘れるわけはない。だが。
「なぜ…」
思わず忍人は呟いていた。その質問は予期していたのだろう、布都彦は少しさびしそうな
顔で笑う。
「兄と私は10以上離れています。私が物心ついたころにはもう、兄は岩長姫の元にお世
話になっておりました。吉備と橿原は遠いですから、私が生前の兄と会ったことは数える
ほどしかないのです」
だから、兄のことはほとんど覚えていないのだ、と布都彦は言った。
「ここのところ、…少しいろいろと考えることが多くて」
そう言って、布都彦はうつむく。
「なぜか、何を考えても兄のことにたどりつくのです。…兄だったらどうしただろうとか、
兄は何故、あんなことをしたのだろうとか」
あんなこと、というのは無論、一ノ姫を拐かして行方知れずになったという事件のことだ
ろう。
「あんな事件を起こした兄です。誰にでも聞けることではありません。……だから、葛城
将軍に教えていただきたいと思いました」
「しかし…」
実際のところ、羽張彦と一ノ姫の一件は、忍人もよくは知らないのだ。あの事件が起こっ
たときは、忍人も今の布都彦より幼いくらいの年で、夜寝て朝起きたらなんだか大事件が
起こっていた、という程度の認識だ。
事件のことは、忍人に聞くよりももっと適任者がいる。柊だ。
彼は、一ノ姫と羽張彦が橿原宮を抜け出すのに手を貸し、逃亡中も途中までついていった
と言われている。逃避行の最中で、あの片眼を失ったのだとも聞いた。
だから、事件のことなら柊に聞く方がいい、と告げると、布都彦は首を横に振った。
「柊殿にはもう聞いてみました。……でも、にっこり笑って、今の私にはまだ教えられな
い、とおっしゃっただけでした」
「……は?」
「何でも、私にはまだ経験値が足りないそうです」
なんだその言いぐさは、と忍人は苦虫を噛み潰したような顔になったが、まあしかし、間
違った判断ではないのだろう、とも思う。人生のか、あるいは恋愛のか、悪戯のか、経験
値がそのいずれを指すにせよ、布都彦の経験値はまだまだだといえた。
……忍人も、人のことを偉そうに言えた義理ではないのだが。
「それに、私が伺いたいのは事件のことではありません」
「…?」
「兄が、本当はどんな人間だったのか、知りたいのです」
立派で一族の誇りだと言われ続けていた兄。たまに戻ってきて顔を合わせても、すぐ橿原
宮に戻ってしまって、ろくに話も交わしたことがない。だが幼い布都彦にとって、滅多と
会えないその兄は、間違いなく英雄だった。一族の者がこぞって兄をほめちぎるのを誇ら
しい気持ちで聞いていた。…あの日までは。
「あの日を境に、兄の評価はまったく変わってしまいました。子供の頃から立派だったは
ずの兄は、子供の頃から悪戯好きの悪ガキにされてしまいました。父は兄の事件の責任を
とって橿原にとらえられ、そのまま戻ってきませんでした。母は心痛ではかなくなりまし
た。…私が信じられる人は、いなくなってしまいました」
昨日まで兄を褒め称えていた人が、手のひらを返したように陰口をたたく。
「誰も信じられない。だから、誰にも兄の話を聞くものかと思っていました。…ずっと。
……ですが」
ここにきて気が変わったわけは、布都彦は言わない。そこは忍人も追求しなかった。だが。
「…なぜ俺なんだ。…柊にうまくあしらわれてしまったとはいえ、道臣殿も風早もいる。
あの二人なら、君に本当の羽張彦のことを教えてくれるよ」
「そうでしょうか」
布都彦は硬い声で言った。
「私はそうは思いません」
……?
「道臣殿には、…兄の話をうかがったことがあります。…道臣殿の話に出てくる兄は、事
件を起こす前、一族の者がこぞって口にしていた兄の姿と同じでした。すばらしい、非の
打ち所がない人間です。……でも本当に兄はそういう人間だったのでしょうか」
道臣殿はお優しいから。布都彦は少し遠い目をしてそう言う。
「兄のいいところだけをお話になるのかもしれない。…そう思ってしまうのです」
風早殿にはお話を伺っていませんが、そう前置きして、
「風早殿も人がよくていらっしゃるので。…もしかしたら、兄のいいところしかお話しい
ただけないかもしれない。…そう思ってしまうと、聞けません」
いや、道臣はともかく、風早は決して優しいだけの人間ではないのだが。だがまあ、布都
彦がそう思いこんでしまっているなら、風早の話す羽張彦がいかに真実に近くても、彼は
そっくりそのまま受け取ることはすまい。
「ですので、ぜひ、葛城将軍に教えていただきたいのです。葛城将軍なら、言葉を飾るこ
とはなさるまいと思いますし、それに…」
「それに?」
布都彦は少しはにかんだ顔になった
「最後に会った兄は、こう言っていました。『…岩長姫のところに、葛城の族のご子息が
おられる。入門したときは、今のお前よりも小さいくらいだったから、お前をきたえるよ
うなつもりできたえていたら、すっかり立派になったぞ』と。…兄にとって葛城将軍は、
弟のような存在だったのではないかと思うのです」
であれば。
「私が見られるはずだった兄の姿を、あなたならご存じではないかと、そう思いました」
まっすぐなまなざしに、あの人の明るい表情豊かな大きな瞳が重なる。
いつも子供扱いして、わしわしと頭をなでてきた大きい手。子供扱いするなと何度言って
もきかなかった。そのくせ、悪戯をするときは忍人よりもよほど子供のようで、いつだっ
て岩長姫にがみがみと怒られていた。
なんだなんだ、遠慮するな。こんなちっこいのに、もっと縮こまってどうする。
……そう、確かに。
…忍人は両親の一粒種で、異母兄弟すらもたない。…だから兄という存在にずっとあこが
れていて、…そして羽張彦の存在は、あの岩長姫の屋敷の中で、自分にとって兄そのもの
だった。
「…わかった。話そう。…俺の知る羽張彦を」
ぱあっ、と布都彦の表情が輝く。
ただし、と忍人は釘を刺した。
「話は明日だ。今日はもう、道臣殿に顔を見せて、食事をとって、寝てしまうこと。明日、
堅庭で俺は早朝の鍛錬をする。気が向いたら来るといい。…君が来たときに他にも人がい
るようなら場所を移す」
…そこで話そう。兄の話を。…君の。……俺の。

ありがとうございます!!と叫んで布都彦は走っていった。見送りながら、忍人はふと考
える。…自分にもし弟がいたら、こんな気持ちになるだろうか。
…自分を見ていた羽張彦は、こんな気持ちだったのだろうか。
…心のどこかに灯りがともったような、……あたたかな気持ちでいたろうか。