リトルヴァイオリン

寮の律の部屋は、生真面目そうな見た目によらずひどく乱雑だった。
幸い物が少ないので、見た目はともかく、足の踏み場もないという散らかりっぷりではな
い。
その殺風景な部屋に、ぽつんと小さなヴァイオリンが置いてあった。まるでおもちゃのよ
うな大きさのそのヴァイオリンは、最近弾かれた様子はなく、けれども部屋の飾りという
わけでもなさそうだ。
「律。…これ、何だ?」
何気なく問うと、律は一瞬けげんそうな顔をしてから、ああそうかと小さくうなずいた。
「大地は高校から始めたから、最初から大人用の楽器を使ったんだったな。…それは子供
用のヴァイオリンだよ」
…律の簡潔な説明によると、ヴァイオリンやヴィオラという楽器は身長(腕の長さ)に応
じて持ち替えていくものらしい。ヴィオラを見慣れた大地の目には、律の今使っているヴ
ァイオリンですら小振りに見えるのだが、ヴァイオリンを始めたばかりの幼稚園児には確
かに、律のヴァイオリンのあごあてにあごを載せると糸巻きに指が届かないかもしれない。
律の部屋にある小さなヴァイオリンは、律がヴァイオリンを始めた時のものだそうだ。普
通は既製品で間に合わせるものらしいが、幼なじみの祖父がヴァイオリン職人だったとい
う律は、最初から幼稚園児の律の身体に合わせて作られたそのヴァイオリンを使っていた
のだという。
「結局、にょきにょき身体が大きくなってしまって、数年とたたずに合わなくなって持ち
替えたんだが、…それでもこれは、俺の一番最初の大切な相棒なんだ」
だから、もうとっくに弾けないサイズになっても、弟や他の誰かに譲ることはせず(もっ
とも一つ違いの弟は自分とほぼ同じペースで大きくなっていくので、譲りようがなかった
のだと律は笑ったが)、大切に傍に置いているのだという。
律のそのヴァイオリンを見る目は優しくて、愛おしげで、…俺は何だか胸が詰まった。
ほほえましく、けれど少しうらやましく、妬ましく。
「……」
ヴァイオリンに嫉妬するなんて、俺もどうかしている。
苦笑して、俺はそっと律に聞いてみた。
「律。…持ってみていいかな?」
律は俺のその言葉に一瞬身を震わせた。顔に浮かぶのは驚きと戸惑い。
…俺は慌てた。
「あ、ごめん、駄目ならいいんだ。気にしないでくれ」
「…いや」
だが応じる律も少し慌てた様子で首を振り、うっすらと目を伏せた。色が白い律のまぶた
は軟玉の白翡翠のようになめらかで、まつげが頬に落とす影はかすかに蒼い。
「大地なら、かまわない」
つぶやいて、…それでも俺が二の足を踏むと思ったのか、座っていたベッドから立ち上が
り、ヴァイオリンを手にとって戻ってきて、直接俺に手渡してくれた。おまけにこうつけ
くわえる。
「小さすぎるから難しいだろうが、弾けそうなら弾いてみてもかまわない」
…。
俺は律の大切な相棒を手に取った。俺の肩から肘までよりもまだ小さく思えるくらいのそ
のヴァイオリンにそっと触れ、弓を当て、…ガヴォットの有名な一節をかなでてみる。
ぎこちない俺の弓の動きに、古く小さいヴァイオリンは優しく応えて、弾むような明るい
音を響かせた。
…目を上げると、律の目と視線がかち合った。…愛おしげでせつないその目は、俺が持つ
小さなヴァイオリンに向けられたものだと頭ではわかっているのに、心は進んで勘違いを
したがる。
…俺は心の中だけで苦く笑った。


後に俺は、律がそのヴァイオリンをそれまで誰にも指一本触れさせていなかったことを知
った。
まして、その時点でまだ素人同然の俺に弾かせるなんてと、俺にその事実を教えてくれた
響也はうなるような声でつけくわえた。
…そのとき、俺の胸に去来した物が何だったか、……ここでは書かないことにする。


古くて小さいヴァイオリンは、今日も律の部屋で静かに眠っている。