ラヴァーズコンチェルト 律の練習を、傍らでヴィオラの準備をしながら聞きながら、大地はふとつぶやいた。 「その曲なんだっけ」 が、律が弓を止めて顔を向けてきたので、少し慌てて手を振る。 「ああ、いや、…練習の邪魔をするつもりじゃなかった、一人言だったんだ、ごめん」 「いや、かまわない」 律は穏やかに言って弓を降ろした。 「ちょうど、少し休憩しようかと思っていたところだ」 大地は、ほっとしつつも、やっぱり少しすまない気持ちで、微笑みには少し足りないあい まいな顔で、律に向かって口角を上げてみせた。 「聞き覚えはある曲なんだけど」 「だろうな。タイトルを聞けば思い出すだろう。…ラヴァーズコンチェルトだ」 「…ああ。知ってる。……ふうん?」 「…?…ふうん、とは?」 大地の返答に、納得と理解とは少し違う含みを感じたのだろう。律が珍しく聞き返してき たので、大地はまた、ああ、いや、とつぶやくことになった。 「律には珍しい選曲だなと思ってさ。いつもはもっとこう、指が追いつかないような難し い曲ばかり弾いてるだろう?」 「どんなイメージだ、それは」 言い返しながら律は苦笑している。大地も笑った。 「…まあ、しかし、…そうだな、大地の読みは正しい。これは俺の選曲じゃない。……今 度クラスで、自分の専攻とは違う楽器を演奏している奏者とペアを組んで一曲仕上げるこ とになって、その相手が選んだ曲だ」 「へえ。律のヴァイオリンと、…相手は?」 「トランペット」 「…それは、珍しいね」 「そうだな。どちらもメロディをとることが多い楽器だから、もう少し編成が多ければ別 だが、ヴァイオリン一挺、トランペット一本で合わせることは少ない。…だから、合わせ る曲の心当たりがあまりなくて困っていたら、彼女がラヴァーズコンチェルトはどうかと」 「…彼女?」 その一言を聞きとがめ、大地はふと眉を上げた。 「言わなかったか?男女ペアなんだ」 大地の反応にやや不思議そうに、律は淡々と答える。思わず大地は、 「それはそれは」 と口にしてしまった。 「何だ」 「いや別に」 突っ込み返してほしくない。大地は首をすくめて話題を元に戻す。 「そういう経緯か、なるほどね。…いい選曲だな。やさしい曲で」 大地の一言に、律は眉を寄せた。 「簡易だからと選んだわけでは」 「そっちの易しいじゃないよ」 言いつのりかけた律の言葉を、大地は微笑みながらも急いで遮る。 「穏やかで暖かくて、…心優しい曲って意味」 「…ああ。…そうか」 言葉の読み違いが恥ずかしいのか、珍しく律は少し耳を赤くし、ごまかすように言葉を重 ねてきた。 「そうだな、確かに。…交替でメロディと伴奏を演奏し合う編曲なんだが、会話のようで いい雰囲気の楽しいかけあいになっている。ヴァイオリンもトランペットも雄弁な楽器だ から」 「うん。…そうか」 いいなあ、と大地はぽつりと思う。 珍しく、語る律の目は柔らかい。演奏や編曲、パートナーに満足しているのだろう。そん な目で見つめられながら、この優しい愛おしいメロディをかけあいで弾くのはどんな気分 だろうと思ったりもする。 「…俺も…」 …俺も、律とそんな風に弾いてみたい。 「…?…何だ?大地」 「……え?」 「今、何か言いかけただろう?」 「あ。…え?…えっと」 心の中だけでつぶやいたつもりだったが、うっかり声にも出してしまったようだ。大地は 慌てて首を横に振った。 「いや、何でもない。…その曲を二人で弾いているところを聞いてみたいなって、少し思 っただけだ」 「…そうか」 律は眼鏡の奥の瞳を穏やかに細くした。 「相手の都合が合えば、今度聞かせる」 「はは。…そんなわがままは言えないよ。律も彼女も忙しいだろう?」 「わがままと言うほどのことではないと思うが」 律はそう言って首をすくめ、 「…ならば今度、大地が弾いてみるか?」 何でもないことのように、さらりと付け加えた 「……え?」 「今の楽譜を少し手直しすればヴァイオリンとヴィオラでも弾けると思う。技巧的にはど ちらかというと易しい編曲だし、今の大地の技術なら問題ない」 「……。……弾いて、いいのかな」 思わず大地はつぶやいていた。 「……?」 律が首をかしげる。 「……その、…俺が、律の相手で」 律は大地の言葉に一瞬目を丸くし、…それからゆっくりと細めて、うん、と小さくうなず いた。 いつもなら顔色一つ変えずに、ああ、と言い切るだろう彼の、いつにない柔らかい仕草に どきりとする。大地は、耳がじわりと熱くなるのを感じた。 律は今の会話をしおにするかのように、またヴァイオリンを取り上げて弾き始める。優し い旋律は、ゆっくりと大地の胸に落ちて、しみた。