また、明日。 今日も明日も、必ず会えるとためらいなく信じていた。 今にして思えば、それは何と傲慢な喜びに満ちた日々だったのだろう。 はっと我に返って時計を見ると、九時半を少し回ったところだった。 「……」 律は机の上に広げたノートに目を落とし、眉をひそめて前髪をかき乱した。 季節は秋から冬に移ろうとしていた。期末試験を控え、授業の復習に励まねばならない時 期だったが、どうにも身が入らない。 理由はいくつかあった。大学への内部進学が推薦でほぼ確定していること、OB会のクリ スマスコンサートに現役生の客演として参加が決まっていること。…けれどそれらはすべ て表面的な理由であって、本当の理由ではない。 律の集中力を削いでいる本当の理由は、大地と会っていないことだった。 副部長の引き継ぎ後、勉強に専念するようになった大地だったが、それでも文化祭の引退 演奏の練習があるときには部に顔を出したし、部に顔を出さない日も放課後は図書館で勉 強して、部活が終わった律が迎えに行くのを待ってくれた。 だが、ある日を境に律は放課後迎えに行くことを止めた。それだけではなく、機会を見つ けては一緒にとるようにしていた昼食も、なるべく普通科と重ならない時間にとりにいく ようにした。 …それは、ある会話を漏れ聞いたからだ。 ある日、いつものように大地を図書館に迎えに行くと、大地は誰かと話していた。相手に は見覚えがあった。普通科の生徒で、大地と同じく医学部を受験する生徒だ。 大地の傍らに立ち、どこか憂いた表情の彼を見て、とっさに律は身を隠した。何か大事な 話をしているのだと直感した。自分がここで出て行けば、その会話が途切れてしまうと。 「やっぱり、独学や自習では限界があるよ、榊」 どこかいさめる声で彼は言った。見上げる大地は苦笑混じりで、そうかな、と穏やかにつ ぶやく。 「そりゃそうだ。…他の学部ならいざ知らず、医学部を目指すにはやっぱり専門の予備校 に通った方がいい。…今のままで、志望校に合格できるのか?」 「どうかな。…この間の模試の判定結果を聞きたいかい?」 「…そこまでつっこんだことを教えろとは言わないけど」 彼はなお眉を寄せた。 「俺は今まで、榊と競うことでだいぶ助けられた。だから言うんだ。…もっと受験に本腰 入れろ。…もう時間はないんだぞ」 「忠告ありがとう。…肝に銘じるよ」 「どうだかなあ」 「ほんとだって」 まだ何か言いたげだった彼だが、あからさまに大地が会話を打ち切ろうとしているのを見 て取って、両手を降参の形に挙げ、いらないだろうけど一応置いていくよと何かパンフレ ットのようなものを置き去りに、図書室を出て行った。 彼が確実に去ったことを確認し、書棚を遠回りして律が大地に近づくと、大地はそのパン フレットをぱらぱらとめくっていた。…どうやら予備校の資料のようで、律が、大地、と 彼に呼びかけると慌てて閉じる。 「…ああごめん、律。…もうそんな時間かい?…一緒に帰ろうか」 その笑顔はいつもと変わりないはずなのに、あの会話を漏れ聞いた後では無理をしている としか見えなくて。 その日一緒に帰りながら、律は決めたのだ。大地の邪魔をしないと。 OB会のコンサートに客演するから、今よりもっと遅くまで練習する、だからもう放課後 迎えに行かないと宣言したとき、大地は律が思うよりもあっさりとそうかと言った。昼食 は宣言して避けたわけではないが、大地の方も無理して律を探そうとまではしないようだ った。 そうやって昼休みと放課後を避けるだけで、律は恐ろしいほど大地に会わなくなった。同 じ学校にいるはずなのに、本当に見かけない。音楽科の響也やかなで、ハルとは、学年が 違っていてもしょっちゅう出くわすのにだ。 もしかしたら大地の方でも自分を避けているのかもしれないと考えかけて、律は首を振っ た。…そうではない。そうではなくて、単に音楽科と普通科では接点がなさ過ぎるのだ。 それだけだ。 今日で何日大地の顔を見ていないだろうと指を折りかけて、むなしくなって止める。大学 に入れば、今まで以上に会えなくなるのだ。少しずつ慣れていかなければ。…そう自分に 言い聞かせて、律はまた問題集に目を落とす。だが、苦手な英語の長文は、全く頭に入ら ない。 「……」 息を吐く。髪をかき乱す。頭を振って、その考えを追い出そうとする。…が、どうにもな らない。 会いたい。 一旦自覚してしまうと、もうどうにもならなかった。 会いたい会いたい会いたい。一目でいい。いや、会えなくても、せめて彼の窓の灯りを見 るだけでも。 ……。 律は観念した。コートを取り上げて羽織る。まだ十時前だ。門限には少し時間があったが、 万が一を考えて、非常階段の扉の鍵を開けて出る。ここを開けておけば、正面玄関が閉ま った後でもいざとなったらここから入れる。 息を吐くと白い。見上げれば降るような冬の星。凍てつく風を切るように、律は夜の中を 歩き始めた。 寮から大地の家まではさほど遠くない。凍えるほどのこともなくたどりついて、律はそっ と大地の家を見上げた。 何度か遊びに行って、どれが大地の部屋の窓かは知っている。まだ勉強しているのか、窓 には灯りがついていた。だがカーテンで閉ざされ、中の様子はうかがえない。こんな寒い 夜に、大地が窓を開けるはずもない。 だが、それでもよかった。 呼び出そうと思えば、口実の一つや二つ、考えつかないわけではない。たとえば期末試験 の英語がお手上げだと泣きつけば、笑って寮まで教えに来てくれるだろう。けれどそんな 風にねだることは大地の妨げにしかならない。そう思うと出来なかった。 だから会えなくていい。ただ、あそこに大地の灯りがある。彼がそこにいる。そう思うだ けで、波立ち渦巻いていた自分の心が、ゆっくりと凪いでいくようだった。 今大地は問題集とでも向き合っているだろうか。それとも休憩中か。ぼんやりそう考える だけでも少し楽しい。 …そうやって、どれくらい彼の灯りを眺めていただろう。 不意に、カーテンが揺れた。 「…?」 窓辺に大地の影が映る。 「…!」 影は姿を現し、カーテンの間をかき分けるようにして窓を開け、夜空を見上げた。 …大地。 心の中だけで律は呼んだ。 白い息が夜空に消えるのを見送り、大地が何を見ているのかと彼の視線が動く方へ、星空 を見上げた。 地元とは比べものにならないほど、夜でも明るい横浜の街。律のいる場所は街灯の灯りが 届かないので暗いが、それでも夜空に輝いて見える星は少なかった。天の川など、その姿 を見分けるのがやっとで、人によっては見つけられないかもしれないと思う。それでもさ すがに冬の空気は澄んでいて、降るような星は美しかった。 大地もその美しい星を堪能したかと、視線を空から彼に戻したときだった。 「……!」 窓の下を見下ろす大地と、目が合ったような気がした。 …いや、そんなはずはない。灯りの中にいる大地が律から見えるのは当然だが、大地から は律のいる場所は単なる暗がりのはずだ。まして、あそこに大地がいるはずと期待をこめ て見上げる自分とは違い、大地は、ここに律がいることを知るよしもない。 …だが、恐ろしい勢いで窓が閉められたかと思うと、部屋の灯りが消えた。 何故部屋の灯りを消すのだろう。もう寝るから?…それとも、…誰かを見つけて、その誰 かに会いに外に出ようと思ったから…? 「…っ」 律は一瞬凍りついた。 大地に会いたかった。けれど何故か、こんなふうに会ってはいけない気がした。 ただ会いたいとわけもなく部屋を出て、自分のわがままで彼の邪魔をするようなことは許 されないと。 だから慌てて背を翻した。この場を逃げだそうとした。 …けれど、その律の判断は少し遅すぎたようだった。 「…律!」 息を弾ませた声に呼び止められて足が止まる。 「…どこへ行くんだ、律」 大地の声がいつもより少し低い。 「まさかここまできて、俺の顔も見ずに帰るなんて、そんなことしないよな?」 「…」 律は動けなかった。大地に会いたい。振り返りたい。…けれど振り返ってしまったら、た がが外れてしまいそうで。歯止めが利かなくなる、そんな気がして。 …歯止め? ふと、律の中の冷静な誰かが問いかける。 ……何の? 「それとも律は」 自問自答している律に、大地はなおも問いかける。声は少し変化した。自嘲するように、 どこか冷たく。 「俺の顔なんか、別に見たくなかった?本当にただ通りかかっただけ?」 「…っ、ちが…!」 律が振り返るのと、大地が律の肩を掴むのはほぼ同時だった。 目が合って、…大地が何をしようとしているのかを察し、律は声をひそめ、けれど諫める ようにその名を呼ぶ。 「…大地…!」 しかし大地はその律の声を平然と無視した。 抱きすくめ、律がもがくと見るや、その身体を背後のブロック塀に押しつけた。塀の冷た さにひやりとし、これから己の身に起きることを予感して身をすくませ、けれども。 「…」 降りてきた口づけの甘さに、抵抗とためらいは消えた。 律の意識を占拠するのは、大地の匂い、大地の温もり、大地の息づかい。それら全てを貪 欲に奪おうとするかのように、いつしか律は熱をもって大地の口づけに応えていた。歯列 を割って入ってきた大地の舌を絡め取り、その息ごと吸い込んで。 抱擁に酔いながら、如何に自分が大地に餓えていたかを思い知る。どれだけ与えられても、 どんなに奪っても足りない。…もっと。……もっともっと。 「…っ」 長い長い口づけを終えて、大地がほんの少し身体を離したとき、律の瞳はほとんど焦点が 合っていなかったが、そのぼんやりした視界でも、大地が困ったような苦笑を浮かべてい るのは見て取れた。その笑顔のまま、改めてそっと抱きしめられて、 「誰が通るかもわからない場所にしては、ずいぶん積極的だった」 笑みを含んだ声でささやかれ、我に返る。 つま先からこめかみまで、一瞬で血が沸騰したような気がした。 冷静に自分の行為を思い返すと、恥ずかしくて少しくらくらする。けれど、よろける身体 は大地がしっかり抱きしめてくれた。その腕に力を込めながら、今度はさっきより少し真 面目で静かな声で、大地は律の耳元で謝罪する。 「無理矢理、ごめん」 …律は、大地の上着をぎゅっと握った。 「律が帰るんじゃないかと思ったら、我を忘れたというか、…必死で、つい」 律が自分の行為を思い返して顔から火が出る思いをしているように、大地も自分の行為を 冷静に振り返り、さすがに気まずい思いでいるらしい。律がしっかり立てることを見て取 るや、再びその身体は少し律から離れたが、自分の上着を握りしめている律の指を見て愛 しそうに小さく笑う。 「…いや、ちがうな。律が帰ろうとしなくても、…あんなふうに無理矢理にではなかった だろうけど、きっと、抱きしめてキスしてたと思う」 片手でそっと乱れた律の前髪を梳いて、ぽつりと大地はつぶやいた。 「……ずっと、……ずっと律に会いたかった」 「……」 律はようやく、大地をまっすぐに見上げる。 「……俺も、大地に会いたかった」 その一言で、大地の顔がぱっと華やいだ。その笑顔を愛おしく思いながら、しかし律はも う一度うつむく。 これを言えば、大地はたぶん怒るだろう。けれどどうしても、言わなければならない。 「会いたかったけど、…でも、こんな風に会いに来ちゃいけなかった」 またあの低い声が、律、と静かに自分を呼ぶのではないかと、ひそりと身を固くする。 だが大地は、穏やかな声でどうして?と問い、…問うておいて、ごめん、いいよ答えなく て、と笑った。 「俺も気付いてた。…律が俺のためを思って、いろいろ遠慮してくれてること」 手がもう一度律の背に回る。 「…あの日、聞いてたね?」 律はびくりと震えた。…その震えを押さえるように、大地の手は律の背を、そっとなだめ るように撫で、律が大地の側に引き寄せられるような形で二人の距離が少し近づく。 「…気付いていたのか」 律が低く問うと、大地は、いや、と首を横に振った。 「あの時は気付いてなかった。でも律が、今日からは一緒に帰らないって言い出したのは あの次の日からだったし、その日の昼食の時も姿を見かけなかったから、ああ、あの話を 聞かれたんだなってわかった」 律がまた強張った顔をしたからだろう、大地は笑って、いいよ、と言った。 「聞かれたことは気にしていない。別に隠すような会話でもないしね。昼食の時に会えな いのも、放課後一緒に帰れないのも、律の気遣いだってちゃんとわかってた。だからこそ、 一生懸命勉強しないとって、がむしゃらに勉強したよ。予備校にも申し込んで通い始めた し、無為の時間なんて作っちゃならないと、空いた時間があれば、とにかく勉強して勉強 して勉強して」 …恐ろしく息が詰まりそうなことを言う。言った大地もふーっとため息をついた。 「…でも駄目なんだ」 「……駄目って」 「そんなふうにして勉強しても、ちっとも能率が上がらない。意地を張ってるだけで、何 にも頭に入ってこないって、…そういうこと」 おずおずともう一度律が見上げると、疲れたような笑顔が返る。 「…気持ちに隙間が出来ると、律のことばかり考えた」 「……」 好きだという気持ちは、なんて不自由なものだろう。相手のことでがんじがらめになって、 相手のことをがんじがらめにして。 「だから。…頼むから、こんなふうに会いに来ちゃいけないなんて言わないでくれないか。 俺は、律が会いに来てくれてうれしかった」 「……」 律はそっと大地の背に手を回した。一歩近づくと、胸と胸が触れあった。大地が鋭く息を 吸って、…律の背に回した手に、力を込める。 「…決めた」 突然大地がきっぱりと宣言した。ぽかんと呆気にとられたのは律だ。 「……何を?」 「もう意地を張らない。我慢もしない。時間を合わせるのは無理でも、会うことを避ける のはやめる。…昼休みは律を探すし、時々はまた、一緒に帰ろう」 …一緒に帰る?…だが。 「…予備校に通い始めたと、さっき」 おずおずと律が言うと、予備校は毎日じゃないから、と大地は苦笑した。 「予備校がある日は一緒に帰れないけど、それ以外の日の放課後は、今も図書館で勉強し てる。…また一緒に帰って、別れ道でまた明日って言おう、律」 大地のその言葉に、律は静かに瞑目した。 じゃあ、明日。 また、別れ道でそう言える。 今ならわかる。それがどれだけ幸せな言葉なのか。 「……律?」 目を閉じ黙り込む律に、大地は少し怖じたようだ。不安を含む声色に、律は微笑んで瞳を 開けた。 「…なんでもない。…また明日という言葉がうれしかった。…それだけだ」 「……?」 「さようならじゃなくて、また明日と言い合えるのは幸せなことなんだと、たった今気付 いた」 「……律」 そうだね、と大地は優しくつぶやく。律はゆっくりと微笑みながら、時間割を頭の中で思 い返した。 「…明日の四限は実技で遅くなるから、俺を食堂で探さなくていい。…でも、明後日は普 通の時間に食堂に行けると思う」 大地は、律の言葉に直接は答えず、けれど呼応するように。 「月火木が予備校なんだ。水曜と金曜は図書館にいるよ」 律はそっと大地の胸を押し返し、身体を離した。大地も素直に手を放す。 「なら、明日は図書館に迎えに行く」 「わかった。待ってる」 「…本当に、勉強の邪魔にはならないか?」 「律が迎えに来てくれるって楽しみがある方が、たぶん勉強がはかどると思うよ、俺は」 けろりとうそぶく大地の顔は、先刻再会したときよりもずいぶんとゆったり余裕を含んで いて、律をほっとさせる。会いたいという気持ちは決して傲慢な一方通行ではないと、許 されたような気がした。 「……じゃあ」 そう口を開いて。 …律は穏やかな気持ちで、大切な一言を口にする。 「また明日、会おう」 「ああ。…おやすみ、また明日」 受け取る言葉も愛おしく。 名残惜しさに後ろ髪を引かれながら、律は大地に背を向けて寮への道をたどり始めた。 数歩行ってから振り返ると、大地はまだ塀の傍に立っていて、律の顔を見ると片手を挙げ た。その唇が『あした』という形に動くのがうれしくて、ほてる頬には凍てつく風すら心 地よい。 寮への短い帰り道、その一言を、律は何度も繰り返した。 また、明日。