またね


ほぼ始発に近い早朝の駅に人影はまばらだった。
律は空いているベンチに腰を下ろし、携帯を取りだしてため息をつく。一言メールを入れ
ようかとも思ったが、迷って止めた。いくら何でも朝が早すぎる。メールの着信音で起こ
してしまっては迷惑になるだろう。
実家に着いてから、到着したことをメールで知らせればいい。そう思って携帯はもう一度
ポケットに戻した。
…思いを決めてしまうと、電車の待ち時間は手持ちぶさただ。人恋しいような気持ちで立
ち上がり、ゆるりとあたりを見回して、…律は一瞬目を疑った。
改札をぬけて、ゆっくりと近づいてくる人影。彼がここにいることが信じられなかったの
だ。
「……大地……!?」
声を高くする律に、近づいてきた大地は手を上げて笑いかけてきた。
「やあ、律。…誰か探している風だったね。それが俺ならうれしいんだけど、……なんて
ね」
「…なぜ、ここに…!?」
「そこまで驚かれると傷つくなあ。…律の見送りだよ。決まってるだろう?」
「だが、俺は何も…」
昨日一日一緒に過ごしたが、今日の予定は何も大地に告げなかった。横浜を何時に発つか
も、東京駅からどの時間のどの特急に乗るのかも。…いったいどんな魔法を使ったら、今
ここに律がいるとわかるというのか。
驚いている律の顔を大地はしばらく楽しんでいる風だったが、唇を三日月の形に結んで笑
みを作ってから、穏やかに種明かしを始めた。
「…前に教えてくれただろう?実家に帰るのは電車やバスを乗り継いでほぼ一日がかりだ
って。…この年末の混む時期に、用意のいい律が、家に到着するのが晩遅くなってしまう
ような列車を選択するとは思えない。自ずと東京駅からの特急の発着時間は絞られる。…
後は、逆算と、勘でね」
「…そうまでして…」
どうして、は、大地がぽんと律の胸をこぶしでこづいたので呑み込んだ。
「…言ったろ。…律を見送りたかったんだ。それだけじゃ、いけないかい?」
「……」
律は胸にあてられたままのこぶしを見下ろした。
ヴィオラを始めて九ヶ月。まだ日は浅いのに、練習熱心な大地の指には既にタコができつ
つある。その手をじっと見つめて静かに笑み、決して消えないタコになってしまっている
自分の指の節で、その手にそっと触れてみる。
「…ありがとう、大地。……来てくれて、うれしい」
「……そう言ってもらって、ほっとしたよ」
心底安堵したような大地の顔に、律がくすりと笑ったとき、静かなホームに柔らかなメロ
ディが流れた。メロディに続いて列車の接近を知らせるアナウンスが入る。律は荷物とヴ
ァイオリンケースを持ち、大地は一歩引いた。
「いい帰省といい正月になることを祈ってるよ」
「ありがとう。大地も、体調には気をつけて、いい年を迎えてくれ。…ご両親と、それか
ら、モモにもよろしく」
付け加えられた名前に、大地はふっと笑った。
「……ああ。…言っとくよ」
律が笑い返したとき、ホームに列車が滑り込んできた。
乗り込む律と、動かずに見送る大地の間を、ゆっくりとドアが隔てて。
…列車が動き出す直前大地が紡いだ声は、ドアの向こうの律の耳には届かなかったけれど、
聞こえなくても唇の形でそれとわかった。
とても優しいその言葉は、たった三文字。

…またね。