めぐる糸

その扉は、他の扉とは少し違って見えた。
触れた感覚も、他の扉より手応えがあり、押し開けようとするとはね返すような力を感じ
る。
「……?」
やや首をひねりながら、那岐は肩を入れるようにして一気に押し開けた。
「…!」
外気が吹き込んできた。船の内部にこもる、洞窟のような湿っぽい匂いとは全く違う、外
の風だ。
「…え?…ここ船の入口?」
那岐は思わずつぶやいたが、ちがった。
船体の屋根の一部がルーフバルコニーのようになっているらしい。そこにあったのは小さ
な庭だった。四阿が備えられ、木も生えている。地中に一部埋まっていた割には、堂々と
した風格の、力強い木々が多い。
朱雀の傍近くで育ち続けたからかと、那岐は思う。朱雀は燃え上がるような生命力を象徴
する神だ。
ぼんやりと考え込んで、木の方に気を取られていた那岐は、かつんという足音にはっとし
た。人の気配を全く意識していなかったのだ。慌てて音がした方を見やると、庭の先端に
近いあたりの木陰から、影のように人が姿を現すところだった。
影のように、と感じたのは、その人物が黒い服をまとっているためかもしれない。岩長姫
の愛弟子で、風早とも昔なじみだという青年だ。もっともそんな経歴よりも、那岐にとっ
ては、不吉な刀を振るう男、という印象の方が強い。彼の刀の持つ、どこか怨嗟にも似た
気配が那岐はどうにも苦手で、あまり近寄ったことも、ましてや話しかけたこともない。
名を確か、
「葛城…」
きびきびと那岐に向かって近づいてきていた青年は、那岐のそんな小さなつぶやきをしっ
かり拾ったようで、ひたりと足を止め、言った。
「…忍人でいい」
那岐ははっと彼を見た。彼もまっすぐに那岐を見ていた。
「差し支えなければ、俺も君を那岐と呼ぶから」
そっけなくも聞こえる物言いだったが、彼らしい率直さがうかがえて、不快感はなかった。
那岐は軽く肩をすくめる。
「いいもなにも、僕は氏も姓も持たないただの那岐だよ。他に呼んでもらいようがない」
言ってから、自分の言い方の方がそっけなかったと思ったが、相手はさして気にした様子
はなかった。那岐、と確認するように呼びかけてから、
「ここで何を?」
問うてくる。
「…別に。あえて言うなら、船内の探検、かな。…忍人こそ」
答えて、返す刀で問うと、
「似たようなものだな。…俺の場合は、探検というよりは点検だが。空を飛ぶ船の構造は
わからないから危険度の判断は難しいが、壁のひびや足を滑らせて落ちる危険性がある場
所くらいは確認しておくべきかと思って」
生真面目な答えが返ってきて、その生真面目さが彼らしく思えて、那岐はつい口元をゆる
めた。その表情を見て、忍人が腕を組んでかすかに首をかしげる。風が柔らかく吹いて夜
空の色をした髪がふわりと揺れた。
……あれ。
那岐は、なつかしい匂いをかいだ気がした。それがなんだか思い出せなくてじれったいが、
豊葦原に還ってからは縁遠かった匂い、のように思う。
……なんだ、これ。
思わず鼻をふんふんと鳴らすと、忍人が怪訝な顔をした。
「何をしている?」
「…いや、…その」
言おうとして、自分がしたことが結構失礼なことかもしれないと気付き、那岐は思わず言
い淀んだ。
「……その、たいしたことじゃないんだけど、…なんか、匂いが……」
忍人は眉をしかめた。
…無理もない、と那岐も思った。いきなり鼻をくんくんさせて匂うとか言われたら、自分
だってむっとする。慌てて言い訳しようとする那岐の機先を制するように、忍人がぼそり
とつぶやいた。
「…狗奴達のようなことを言う」
………?
那岐はぽかんと目を開いた。忍人はそんな那岐を静かに見ている。瞳に怒りの色はなく、
むしろあきらめたような静けさだけがあった。
「彼らに言わせると、俺はかぎ慣れない匂いがして気味が悪いのだそうだ」
「……」
気味が悪い?
忍人のその言葉に、那岐は思わず首をかしげた。
そんなことはない。そんな匂いじゃない。……ああ思い出せない、何の匂いだろう。よく
知っているのに。温かくてやわらかい、…いい匂いだ。
思い出せないことはいったん棚上げして、那岐はゆるゆると口を開く。
「……僕は、狗奴に育てられた」
静かな湖面のようだった忍人の瞳に、ふとさざ波が立ったように思った。
「前の四道将軍か」
「知ってる?」
「俺の一族は狗奴の一族とは昔から懇意だし、高名な方だったから。…お目にかかったこ
とは数度しかないが、立派な方だったという印象がある」
丁寧に言葉を選んで語るそぶりからは、彼が那岐の師匠の事件を知っていること、しかし
それがあっても変わらず師匠を敬っていることが窺えて、那岐はほんのりとうれしくなっ
た。
たぶん、那岐の口元はほころんだのだろう。忍人の瞳が少し柔らかくなった。
「…君の鼻が利くのは、狗奴に育てられたからか?」
合流してからというもの、忍人の軽口など聞いたことがない岩長姫がこの場にいたらおそ
らく仰天しただろうが、那岐はそんなことを知るよしもない。軽く目は見開いたが、ああ、
彼も軽口くらいは言うのだなとちらりと思っただけだった。
「…そうかもね」
肩をすくめる。
「でも僕は、別に気味が悪いとは思わないよ。むしろ、…なんでかな。…なつかしくて、
落ち着く」
今度軽く目を見開いたのは忍人の方だった。
「……」
一瞬絶句してから片眼をすがめ、それからゆっくりと、口元に笑みを浮かべた。……ほん
の少し、ほんのかすかに、だったけれど。
「おかしな奴だな、君も」
那岐は唇をとがらせる。
「何それ、失敬な」
忍人は、今度ははっきりと破顔した。目を伏せられたが、くっきりと上がった口角でそれ
とわかる。
「いや、…落ち着くと言われたのは初めてで驚いたものだから、つい。……だが、…うれ
しかった」
伏せられていた瞳が、また真っ直ぐに那岐を見る。
「拒絶しないでくれて、ありがとう」
「………!」
その言葉に、那岐は胸を衝かれた。
決して表には出ていないが、彼はずっと、痛みを抱えていたのだろう。周りからやんわり
と警戒され、忌避され、拒絶され、それでも表向きは仲間として迎えられ、将として奉ら
れて過ごす日々に。弱くならないよう、毅然と顔を上げ、真っ直ぐに歩き続けるために、
必要以上の努力を強いられ、疲労を感じながら。
何か言いたくて、けれど何を言っても、彼の強さの前では言葉足らずでしかないようで、
那岐は唇をかんだ。自嘲の笑いと共に言えたのはただ、
「礼を言われるようなことは、何もしてないよ」
というそっけない一言だけだった。
きっと彼自身そっけないと感じただろうに、忍人はまだ静かな微笑みを浮かべていた。そ
れからふと、庭をぐるりと見回して、
「君はこれから探検するんだったな。…俺はもう確認を終えたから失礼する。…存分に探
検してくれ。縁から落ちないように」
「忠告ありがとう」
子供扱いされたようで少し口惜しくて、那岐がまた唇をとがらせると、忍人も再度破顔し
た。それから那岐に背を向け、扉を押し開けた。
船内からふわりと風が動いて、湿っぽい船の壁の匂いと共に、もう一度忍人の匂いが那岐
の鼻腔をくすぐる。
「……!」
那岐ははっと身を固くした。
記憶の中のとある匂いと忍人の匂いが、那岐の中で一致したのだ。
那岐に背を向けている忍人は、那岐のそんな反応に気付くよしもない。背をぴんと伸ばし
たまま、振り返りもせずに出て行ってしまった。
重い扉が音を立てて閉まって、那岐は庭に一人取り残される。
「…思い出した…」
一人になった那岐は、思わず声に出してつぶやいた。
忍人からかすかに感じる匂いは、ひなたくさくてほこりっぽい、日に焼けた畳の匂いだ。
それから、味噌とだしがしみこんだような、古い台所のリノリウムの匂い。古い貸家独特
の、たくさんの人が過ごした温かい家庭の匂い。
だが、そんなはずはない。そんなものがこの豊葦原にあるはずがない。畳もリノリウムも、
この世界には存在しない。おそらく味噌でさえも。
だがたぶん間違いない。狗奴達も、忍人からかぎ慣れない匂いがすると言っていたのでは
なかったか。
けれど何故。何故忍人からそんな匂いがするのだろうか。
なぜ。
「……っ」
論理を組み立てようとして、那岐は思わず額を押さえてうずくまった。鈍く、ずきずきと
頭が痛む。まるで何かが那岐の思考を阻んでいるかのようだ。推理の糸をたどることを、
妨げているかのようだ。

何かおかしい。

那岐の頭の中で、ただその一言だけがぐるぐると渦を巻いて回り続けた。