迷鳥

神邑の狭井君の屋敷は堂々たる建物で、広い。
那岐は、その中の一室からほとんど出ずに一日を過ごしている。
船からは、毎日のように千尋が、あるいは風早が姿を見せていると聞くが、那岐は決して
会おうとしなかった。
いや、その言い方は少し違うかもしれない。会おうとしないのではなく、那岐は会いたく
なかったのだ。
だから、万が一にもひょっこり会ってしまったりしないよう、ひきこもるようにして毎日
を過ごしていた。
着々と計画は進む。狭井君の影響力はたいしたもので、必要だとしたもののほとんどをあ
っという間に彼女は集めてしまった。
あとは、実践に必要となる兵力くらいだ。こればかりは、右から左へと手に入るものでは
ないらしい。とりあえずは天鳥船から連れてくればいいと思ったが、岩長姫が言を左右に
して移動させる日程をのらりくらりと引き延ばしているらしい。狭井君から何か見返りを
得ようとしているようだ、と官人の誰かが言っていた。
…食えないばーさんだ、と那岐は思う。
だが、真っ向から要求を突きつけてくる千尋たちより、結局は岩長姫のようなやり方の方
が、狭井君から何かを引き出すことが出来るのだろう。
古狸に対しては、古狐なりのやり方があるのさ、とうそぶく岩長姫の顔が見えるようだっ
た。
那岐がぼんやりとやくたいもないことを考えていると、
「那岐様」
官人が恭しく頭を垂れて、部屋の入口で畏まった。
「出雲から参った兵の半数が、ただいまこちらに到着いたしました」
…どうやら、岩長姫は狭井君から何とか目的のものをせしめたようだ。
「確かに引き継いだ、という竹簡に那岐様の印をいただきたく」
「わかった」
那岐が言うと、官人はす、と身を引いた。…彼の後ろに。
「…忍人…!」
腕組みをして立つ葛城将軍がいた。
「…下がっていい」
忍人は那岐を見ながら、冷たい声で官人に言った。
「…なんと」
官人はむっとした顔で何か言い返そうとしたが、
「自分は忙しい、那岐様の元へ案内することは出来ない、とさきほどあれだけごねていた
だろう。確かに案内してもらった。もう君の仕事に戻るといい」
「それは…」
また何か言おうとする彼に、忍人は振り返り、その目を見つめて静かな声で一言、
「…下がれ」
言った。
その静かで冷たい、抗うことを許されないような声に、官人は完全に気圧されてしまった。
明らかに渋々ながら、だが目に見えて忍人に怯えた様子で、彼はそそくさと下がっていっ
た。
軽蔑するような眼差しで、男が姿を消すのを見送り、忍人はまた那岐に向き直った。
「…なぜ」
「……」
那岐が思わず発した問いに、忍人は口をつぐんだままでいる。
「僕は、船からの使者は誰も通すなと言っておいた」
那岐の責めるような声に、忍人はようやく静かに口を開いた。
「幸い、俺は狭井君にお覚えがめでたくてな」
そんな馬鹿な、と那岐が言おうとする、その機先を制してまた忍人は言葉を続ける。
「…本当は、師君のごね得だ。…兵は渡すが、渡した証に竹簡に那岐のしるしを寄越せ、
偽のしるしでは困るから、必ず使者を那岐と面会させて目の前でしるさせよ、とな。…そ
れを受け入れないのなら絶対に兵は渡さない、と言い張られた。やむなく狭井君もおれた
が、その代わり使者はこちらで指名させてもらう、と」
指名されたのが俺というわけだ。…お覚えがめでたい、というのも、あながち嘘ではない。
淡々と語って、…忍人は黙り込んだ。
強い瞳がじっと自分を見ている。
気まずくて、那岐が目をそらすと、忍人がくるりと竹簡を開いて、那岐に向かって差し出
した。
「…何?」
「君の名を、君の字で」
書き付けるものを渡されて、気が抜けた。
本当に、事務的な処理をしにきただけだというのだろうか、忍人は。
…那岐の方は、彼との約束を反故にした罪悪感で、こんなにどきどきしているというのに。
「…僕が書かなくても」
試しに少しごねてみると、
「君の字でなければ、姫や風早を納得させられない」
冷静に言い返された。
本気で事務に徹するつもりか、忍人は。
罪悪感にさいなまれた分、逆に苛立ちが増して、那岐はひどく乱暴に自分の名を書き付け
た。これでも千尋や風早が見れば那岐の字だとわかるだろう。
「…これでいい?」
「ああ」
忍人は竹簡を受け取った。字が乾いたらすぐ巻くかと思ったが、彼は竹簡を受け取った姿
勢のまましばらくじっとうつむいて。
「…すまなかった」
彼がぽつりと漏らした言葉が、どういう意味か計りかねて、那岐はけげんな顔で忍人を見
た。
「……なに?」
那岐がそう聞き返すと、忍人は顔を上げた。その瞳に浮かぶのは、謝罪というよりは悔い
の色で、那岐を少しぎょっとさせる。
「…君を、見つけ出せなかった」
ひどく悔しそうに、忍人はそう言うのだ。
「君が消えれば地の果てまでも探すと言ったのに、…結局君の方から居場所を宣言してく
るまで、俺は君に会うことはおろか、居場所を見つけ出すことすら出来なかった」
もし会えたら、…君にそのことを謝りたかった。
那岐はあっけにとられた。
そんなこと、忍人が謝ることじゃない。隠れたのは自分だ。
そもそも、何故忍人が謝るのだ。忍人にだけは必ず行き先を言うと言っておいて、言わず
にいなくなったのは那岐だ。先に忍人との約束を反故にしたのは那岐の方だ。忍人が謝る
のは間違ってる。
忍人に謝られたら、僕は、…僕のしたことは…!
「…っ」
那岐は奔流のように流れ出しそうになる言葉を必死になって飲み込んだ。これは言わない。
言いたくない。いや、言ってはならない。
昂ぶった感情を落ち着かせるように、那岐は一つ深く息を吐いた。つばを飲んで。無理矢
理に冷静な顔を作る。
「…僕は、誰かに、僕のために何かをしてほしいなんて、一度も願ったことはない」
突き放すように言い捨てる。
忍人が傷ついた顔をするかと思って言ったのに、思いがけず、彼は寂しそうにうっすらと
笑って、その那岐の言葉を受け入れた。
「…そうだな」
肩をすくめ、竹簡をくるくると巻きながら。
「…君を捜すのは、君の望みではなかった」
ゆるゆると紐で竹簡を留め、顔を上げて、また目を伏せて言葉を綴る。
「これは俺の甘えだ。…君を失いたくないと思う、俺の」
…っ。
那岐は一瞬息を止めた。
…そうしないと、何か言ってしまいそうだった。
今までのことを台無しにしてしまうような、何かを。
忍人は、入ってきたときのような事務的で冷静な顔に戻って、那岐から書きつけるものを
取り返した。
「確かに君のしるしは預かった。…船に戻り、姫に報告する。兵は、すでに狭井君の確認
は済んでいるが、君にも確認しておいてもらいたい」
淡々と告げる声はいつもの忍人だ。…まるで、何もなかったかのようだ。
ここが天鳥船の楼台で、話す内容がいつもの軍議であるかのような、そんなさりげなさ。
……君と僕とは、もう違う岸に立っているというのに。
「…では」
忍人は軽く黙礼して、きびすを返し部屋を出て行こうとした。
那岐は何も声をかけない。
戸口に手を掛けて、…ふと、忍人が足を止める。
「…那岐」
…その声は、先ほどまでの事務的な口調とは少し違った。堅庭でいつも那岐に呼びかけて
きた、ほんの少しだけ優しい、あの声。
「君が何をしようとしているのか、俺にはわからない」
背中を向けたまま話す彼の、表情は見えない。
「ただ、…鳥は確かに一羽でも飛び立てるが、…一羽きりで渡りをする鳥はいない」
鳥は皆、…群れで渡るんだ、那岐。
那岐は唇をかんだ。…一瞬ぎゅっと目を閉じて、ことさらに意地を張った声を張り上げて、
「僕の群れはここにある」
その瞬間、はっ、と忍人が振り返った。
その顔を見て、那岐はすっと息をのんだ。
ほんのわずか、ほんとうにかすかだったけれど。那岐には、忍人が傷ついた顔をしたよう
に見えたのだ。
だがそれは錯覚だったのかもしれない。よくよく見れば、彼はいつもの冷静な、少し冷た
く見える表情をしている。
「…そうか」
その顔で一言つぶやいて、まるで今の会話が何もなかったかのように、背を返してさっと
部屋を出て行ってしまった。
「………」
那岐はがくりと力が抜けたような気がして、ずるずるとその場に座り込んだ。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、なんだかもう何も考えられない。
ああ、と頭をかきむしろうと手を上げて、那岐はふと、袂が重いことに気がついた。
「…?」
不思議に思って袂を探ると、ころりと一つ、釦が転げ出てきた。
「…!」
あの、釦だ。
月夜にあの海辺で忍人に渡した釦。
たぶん、さっき書き付けるものを取り返したときに、忍人が袂に入れていったのだ。
でも何故?…僕が疎ましくなったから、…だから返すと?
那岐は少し苦い気持ちで釦を裏返して、
「…」
唇をかんだ。
釦の穴に、きれいな赤紫色をした糸が一本、結びつけられていた。
この糸を、那岐は知っている。忍人が飾り玉をつけて腰に結んでいる紐の糸だ。偶然絡ん
だものではない。その証拠に船乗りが使うような、きっちりとほどけない結び目で結びつ
けられている。
いったい何の意味が、と考えて、さほど考え込むこともなく、
「ああそうか」
那岐は思わず口に出してつぶやいた。
これは、重しなんだ。忍人が僕に持たせたい重しだ。勝手に僕が一人で飛んでいってしま
わないように。群れから離れないように。
那岐は片手で額を押さえて、…空いた手で、袂に釦を放り込んだ。
…たった一つの釦なのに。
「…重い」
那岐はむっつりと文句を言った。

忍人が船に帰り着くと、楼台で皆がわあわあやっている。
「…?」
中心に、なにやら汚らしい布をかぶった人影が一つ。むくりと立ち上がった背格好を見る
限り、どうやらそれは。
「…姫か?…なんだ、その汚らしい布は」
「あ、失敬なことを言うな、忍人。これはなあ、ものすごいお宝で…」
言いかけたサザキをじろりと見る。…サザキは口をつぐんだ。ちぇ、とつぶやいてさびし
そうに肩を落とすその羽根を、慰めるようにそおっと、遠夜がなでた。
「これをかぶって、狭井君の屋敷に潜入するんです!」
布をはねのけ、千尋はまっすぐな目をして忍人を見つめた。
「私、どうしても那岐の本当の気持ちが知りたいから」
傍らで、風早が、見守るような、けれどどこかつらそうな笑顔を浮かべている。
柊がひらりと竹簡を広げて、
「サザキたちが調べてくれた、おおまかな狭井君の館の地図はこれですよ、姫。…那岐が
いそうな場所は、だいたいこのあたりではないかと思うんですが…」
柊の指し示した場所を忍人は一瞥し、す、とその中の一点を指さした。
「…ここだ」
「…!…忍人さん、那岐に、会えたんですか?」
千尋が驚いた顔で問うてくる。
そのすがるような瞳を、じっと見つめて。
「…いや」
忍人は首を横に振った。
「…竹簡を届ける先を確認できただけだ。…那岐には会えなかった」
彼がいることは間違いない。証を受け取ってきた。
竹簡を取り出して渡すと、急くように巻きをほどいて千尋がのぞき込んだ。その上から風
早ものぞき込み、…ああ、那岐の字だね、と、さびしそうにつぶやく。
「…師君のところに報告に行ってくる。…姫、行くなら気をつけて行け」
ふい、と身を返して楼台を出ると、なぜか背後から柊がついてきた。
「…なんだ」
廊下で振り返ると、柊は派手に肩をすくめて見せた。
「君は、相変わらず嘘をつくのが下手ですねえ」
「……」
忍人は厭そうに柊をねめつけて、…ふいと横を向いた。
「…姫に気付かれさえしなければ、お前が嘘に気付こうが、風早が嘘に気付こうが、別に
かまわん」
柊はかすか苦笑したようだ。
「姫に知らせたくないことが、何かありましたか」
忍人は言いたくなさそうにそっぽをむいたが、…動かない柊の気配を見てしぶしぶ口を開
いた。
「…姫が今から那岐に会いに行くのでなければ、様子を知らせても良かったが」
「……なるほど。…望み薄、なわけですね」
柊は肩をすくめる。
「俺だからかもしれない。…姫なら、また違うだろう」
「それは違いますね。君で駄目なら、我が君ではもっと説得は難しいですよ。…那岐が船
を出たのはおそらく、姫のために他ならないのですから」
忍人はきつく唇をかんだ。…そして無言でその場を離れ、岩長姫の居室へと歩いていった。
その、ことさらに背筋をただした後ろ姿を見送って、柊はぽつりつぶやく。
「…大丈夫。…迷鳥が群れに戻った例しがないわけではありませんよ、……忍人」
その声は、忍人には届かなかった。