眩暈

千尋が即位して以来、若雷と呼ばれたあの出雲の元領主は頻繁に橿原宮を訪れるようにな
った。
最初は千尋へのご機嫌伺いだったのだが、すぐにその用向きは、
「中つ国の書庫にある竹簡を拝見したい」
に変わった。
書庫の管理は柊の担当なのだが、なぜだかシャニが現れると柊の姿が見えなくなる。彼が
隠れてしまうとおいそれとは見つけ出せない。忍人がいれば高確率で発見してくれるが、
そのためにはそもそも、忙しい将軍閣下をつかまえねばならない。二度手間だ。
柊の次に書庫に詳しいのは道臣だが、彼は日常業務で忙殺されている。兵站管理などの後
方支援における有能さは、日常の政務処理における有能さともほぼ等しい。戦乱のどさく
さで、まともな官人があまり残っていないということもあって、今は様々な業務が道臣の
手を通る。とても客人の相手をしている時間はない。
…結果、シャニの相手は那岐に回ってきた。そこそこ書庫に詳しく、宮の政務を面倒くさ
がって余りやらない。千尋にしても、書庫もシャニも知らない官人にシャニの相手を任せ
るよりは、那岐の方が信頼がおける。
千尋にぜひお願いと言われれば、さすがの那岐も断れない。しぶしぶ、シャニの相手をし
た。が、最初は月に一度、という感じだった訪問頻度は、すぐに二週間に一度になり、週
に一度になり、ついには3日に一度くらいの割合で顔を出すに至って、那岐も根をあげた。
柊よろしく、シャニが現れる気配を察すると、とっとと逃げ出すことにしたのだ。幸い、
宮には隠れる場所ならたくさんある。
…が。
「…あのさあ。なんでここにいるわけ」
使われていない調度置場になっている部屋の長椅子に寝転がっていた那岐は、しかめつら
でそうつぶやいた。彼の前にはにこにこ笑っているシャニがいる。
「誰に聞いたの」
「誰にも聞いてないよ。僕の勘が当たっただけ」
さらりと言われて、那岐は大仰にため息をついた。
「…そもそも、なんで僕のところに来るんだ。中つ国の竹簡を読みたいんだろう?誰か適
当な奴に相手してもらいなよ」
むっつりしたままそう言うと、シャニの笑顔の質がふと変わった。
「いやだなあ。…あんな嘘、信じたの?」
那岐は眉を寄せた。…嫌な予感がする。シャニの今浮かべている笑顔は、ひどくたちが悪
い。
「陛下へのご機嫌伺いも、中つ国の竹簡も、全部ただの口実さ。僕は那岐に会いに来たん
だ。…こんなに追いかけてるのに、わからないの?」
「…はあ?」
わかるわけがない。…というか、…本能でわかりたくない、と感じる。
「僕は那岐が好きだよ。那岐はきれいだもの。僕はきれいなものが大好きなんだ。お花で
も女性でも、男性でも」
いっそ無視した方がよいのかもしれないが、反射的に那岐は言い返していた。
「僕はお前のことなんか好きじゃない」
「だろうねえ」
シャニはくすくす笑う。
「最初からずっと突っかかってきたもんね、那岐は。…だから僕もついむきになってしま
って、つい最近まで気付かなかった。君がこんなにきれいだって」
さらりと髪を撫でられて、…ただそれだけの仕草にぞくりとする。
「大丈夫。今那岐が僕のことを嫌いでもかまわないよ。目があってすぐ同時に恋に落ちる
なんてありえないもの。そんなの幻想だよ。だからこうやって何回も会いに来るんじゃな
いか。那岐が僕を好きになるように」
「は?」
那岐は頭痛がしてきた。
「……何考えてるんだ。…ありえないだろ、そんなこと」
「そう?」
シャニは那岐の反応を歯牙にもかけない。それどころかいっそう笑顔が深く、…たちが悪
くなる。
「でも僕は書いたよ。僕の日記に、那岐は僕のことを好きになる、って。…僕が日記に書
いたことは、真実になるんだ。…本当だよ?」
瞳をのぞき込まれて、ついに那岐はキレた。
「ばっかじゃないか、お前!?」
「…そう?…じゃあ試してみる?」
いきなり口づけされた。
身長は那岐の方が高いのだが、寝転がっているところを上から押さえつけられてとっさに
力で勝てなかった。シャニもわかってやっているのだ。上手く体重を利用して、那岐を逃
がさない。
受ける口づけが深い。……重い。…なんだか、くらくらする。
「…!」
はっ、と那岐が我に返って、シャニの体を押し戻そうとしたとき、一瞬早くその体と唇が
那岐から離れた。
「ほら、ね?」
起き上がった那岐の拳から軽やかに身をかわして、シャニはその耳元でささやいた。
「君はもうすぐ、僕を好きになるよ」
「…あ、りえない」
否定する那岐の声は、さっきよりも頼りなかった。体に力が上手く入らなくて、必然的に
声にも力が入らない。
それだけだ。それだけなのに、シャニはひどくうれしそうに笑った。それからふと窓の外
を見て、
「ああ、もう日があんなに傾いた。帰らなきゃ」
ため息混じりにつぶやいて、
「また来るね」
軽やかに笑い、彼は背を翻した。
「……」
那岐はずるずるとその場にもう一度倒れ込んだ。
怒りや困惑といった本来那岐が持つべき感情を、眩暈のような酩酊感が覆い隠してしまっ
ている。うかつに目を閉じるとあの口づけが思い出されて、体が震えた。
「…なんなんだよ、くそ」
力のない悪態を一つだけついて、那岐は仰向けに転がり直した。
指でそっと、唇をなぞる。

…そしてまた、眩暈。