蜜柑

冬の日は、落ちるのが早い。
那岐が特に当てもなく船内を歩いていると、忍人がきびきびと前を行くのが見えた。時間
と方向からして、堅庭でぼんやりしにいくのだろう。忍人にそう言うと、ぼんやりしてい
るわけではなく、思索にふけっているのだと苦い顔をするかもしれないが。
特に話しかけるつもりも、追いつくつもりもなく、那岐がのんびり後ろから歩いていくと、
忍人の腰のあたりからぽろりと何かが落ちて、ころころと転がった。
忍人は、落とし物をしたことに気付いていない。そのまますたすた行ってしまうので、那
岐は思わず足を速め、忍人が落としたものを拾った。
…黄色く丸いそれは、小さな蜜柑だった。
那岐が異世界で見知った温州蜜柑よりも小さく皮が固く、いかにも酸味が強そうだ。
我知らず、感慨にふけっていると、忍人は角を曲がって見えなくなった。那岐は慌てて追
いかける。
彼はやはり堅庭に向かう予定だったらしい。忍人が庭へと続く扉を押し開けたところで那
岐は追いついた。
まだ落ちていない西日が、きらりと瞳を刺す。
「忍人」
呼びかけると彼は、なんだ君もか、という顔で振り返った。その目の前に、那岐はさっき
の小さな蜜柑を差し出す。
「…落とした」
「…」
はた、という顔で腰のあたりを探り、忍人は小さな袋を取り出した。
どうやら、帯につけた袋に蜜柑を放り込んでいたものらしい。袋の口がゆるんでいた。と
いうか、小さな袋にはまだ二つほど蜜柑が入っていて、どうやら、許容量以上の物体をい
れられた袋の口が閉じきらなかったものと見える。
「ありがとう」
律儀に礼を言い、蜜柑を受け取ろうとして、忍人は少し考える顔になった。
「よければ、もらってくれ。……いや」
落としたものをもらってくれ、というのは失礼だな。
小さく口の中でひとりごちて、彼は袋の中から蜜柑を一つ取り出し、那岐の手の蜜柑を受
け取ってから取り出した蜜柑をその手に載せた。
「いいの」
那岐は受け取った蜜柑を掌で転がしながら聞いた。
「何が」
「非常食じゃないの、忍人の」
忍人はくっと喉を鳴らして笑う。
「いや」
首を振りながら改めて堅庭に足を踏み出す。那岐も、別に行く当てがあったわけではない
ので、肩を並べて庭に出た。
「今日足往が拾ってきた」
唐突にそう言われて、なんだ、犬か猫でも拾ったのか、と思ってから、蜜柑のことだと思
い当たる。
「一つでいいと言ったのに、だめです、忍人様はもっと食べないととかなんとか言って、
結局三つも押しつけられた」
那岐は吹き出した。困惑する忍人と、大好きなご主人様を大事にしたくて、喜んでもらい
たくて、ちょっと勇み足になっている子犬の姿が目に見えるようだ。
那岐は又、掌で蜜柑を転がした。その姿を見て、忍人がかすかに眉をひそめ、付け足す。
「今は採りたてでまだ皮も固いし酸味もきついから、少し置いておくといい」
言われて、那岐はぱちぱちと何度か瞬いてからまじまじと忍人を見た。
「…なんだ」
「意外」
「何が」
「そういう知識があるとは思わなかった」
なんとなく、忍人にはお坊ちゃまのイメージがあった。自分で農作物を採取することなど
なく、恭しく出された膳に素直に口を付けているような。
那岐が正直にそう言うと、忍人は片眼をすがめ、当たらずといえども遠からずだな、とつ
ぶやいた。
「家にいるときの俺は、君の言うとおりの人間だった」
こういう知識は、岩長姫の屋敷で学んだ。
「兄弟子に、由緒正しい一族の出の、野生児が一人いたから」
那岐も、うすうす、布都彦の兄の話は聞いている。忍人は敢えて名を出さなかったが、彼
が示すのはおそらくは那岐が見知らぬその兄弟子のことだろうと察しはついた。道臣はも
ちろん、風早も柊も、野生児という表現にはちょっと当てはまらないからだ。
「もっともそれも、…今にして思えば、知識にすぎなかった気がする。本当に身についた
のは、国が滅んでからだ」
忍人はふと言葉を切った。そして、何か考え込む様子で沈黙する。自分と忍人の会話が沈
黙に支配されることは別に珍しいことではないが、この沈黙は話が終わることを意味する
ものではなく、次の会話を導くもののように思えて、那岐は待った。
やがて、ゆっくり忍人が話し出す。
「…不思議だ」
穏やかな顔だった。
「あの戦いで覚えたものは、他者の裏切りや自分の弱さといった、あまり思い出したくな
いものばかりのような気がしていたが、今、思い返すとそうでもない」
あの戦いを経験しないままだったら、こういう知識は頭で覚えたものに過ぎず、身につい
たものにはならなかった。弱者の痛みも、自分とは違う考えの持ち主も理解できなかった。
那岐は忍人のその言葉に、ふと眉を上げた。忍人はそんな那岐を顧みて、微笑む。
「君のことも。…なぜそんなに寝るのかと、怠け者扱いして終わりだったかもしれない」
ありそうな反応で、那岐も思わず笑ってしまった。
「僕が出会ったのが今の忍人でよかった。寝るのを全否定されたら同じ船で暮らせない」
「夜寝ることまで否定するわけではないが」
「いや、船に乗ってるときはともかく、地上に降りて夜営することになったら、交替で見
張りに立とうとかいって起こすだろ、きっと」
那岐が口をとがらせると、
「……それもしたくないのか…」
忍人が額を押さえた。
「したくないとまではいわないけど、いったん寝てから起こされるのは嫌だ」
忍人は堪えかねたか、笑い出した。彼が声を出して笑うことなどほとんどない。庭の隅で
警備に当たっていた狗奴の兵が、驚いた顔で目を見開いたのを、那岐はちらりと見た。…
すぐに、何事もなかったそぶりでぴしりと元の顔に戻ったのがおかしかった。
「夜営が必要になったら、君の当番は夜の一番早い時間にしよう」
「それならいいよ」
忍人はまだ少しくつくつと喉を鳴らしている。那岐も笑って、蜜柑をまたころりと掌で転
がした。
「これ、ありがとう。大事に食べるよ」
「礼なら足往に。採ってきたのは彼だ」
「…うん、そうだけど。…でも僕にくれたのは忍人だし、それに」
足往には内緒にしておいてよ。
そう付け加えると、忍人は怪訝そうな顔をした。
「なぜ」
「足往は、忍人に三つとも食べてほしいはずだからさ。僕が一個もらったって聞いたらが
っかりするよ」
「そんなことはないと思うが」
あるよ、と那岐は首を横に振った。そしてこっそり、鈍いなあ、足往も報われないなあ、
と思う。
みんな、君のことが好きだよ、忍人。たぶん君が思っている以上に。
足往も、千尋も、僕も。
君からもらったというだけで、この蜜柑一つがひどく暖かく思えるほど。
「じゃあ、秘密にしておこう」
さらりと言われたその秘密という言葉に、どきどきする。那岐は頬がほてるのを自覚した。
「那岐?」
「何」
「顔が赤い」
「夕日のせいだろ」
拗ねるような口調で言って忍人を見返すと、…忍人の頬もほんのりと赤かった。
「…君の顔も赤い」
「…夕日のせいだ」
言って、むっとしたようについとそっぽを向く。…そっぽを向いた頬は北向きになったけ
れど、…やっぱり少し赤い気がする。
…那岐は、微笑んだ。
どきどきするのは僕だけじゃないって、思っていいんだろうか。
「蜜柑が甘くなったら、一緒に食べよう」
そっぽを向いた忍人は声に出しては何も言わなかったが、風が動いて、那岐に彼がうなず
いたことを知らせた。
あとは交わす言葉もなく、ただ、二人で落ちていく太陽を見つめる。
蜜柑みたいだと、思った。