この醜くも美しい世界


風早は、龍神の手によって生み出された聖獣だ。

太古の昔、世界には混沌と龍だけが存在した。
だが、龍が戯れにその尾で混沌をかき回し、滴をしたたらせたことによって、最初の聖獣
が生まれた。
以来、龍神は様々な聖獣を生んだ。風早もその一柱だ。
だが、自分と変わらぬ永劫の命を持つ獣たちにも倦んだ龍神は、やがて、限りある命の生
き物たちを生み始め、その果てに人を生んだ。
他の獣に比して生き抜く身体能力に劣るその生き物のため、龍神は武器として智恵を与え
た。……それが、全ての始まり。


人が全てそこから始まったと考えるなら、毎年皆が同じ日(新年)に年を取るという中つ
国の考え方は、あながち間違いではないのかもしれないな、と、ぼんやり風早は思う。
…そして、その伝で行くなら己の誕生日は、龍神が戯れに混沌の滴で獣の姿を描き、命を
与えたその日であるべきなのだが、風早にはどうしても、そのおぼろげにすら覚えていな
い瞬間を、己の誕生日と考える気にはなれない。
それよりもむしろ、初めて山中で人の子に出会ったとき、その少女が獣としての風早の姿
の美しさに目を輝かせ、
「馬でも鹿でもカモシカでもない。…貴方は何?」
と問うてきた、その瞬間。
……りん、と鳴らしてやった音に手を打って喜んで、
「ちりん?…きりん?……きりん、と聞こえたわ!貴方の名はきりんなの?白いから、白
きりんね!」
そう言って、傍らにあった花を、……今にして思えば、野生の茶の花ではないかと思うの
だが、…白い、丸い、五弁の花びらの中に王冠のような金の無数の雄蕊が美しい、一枝の
花を差し出し、あなたに似合うわ、と微笑んでくれた、……生まれて初めて己の名という
ものを得たあの日が、白麒麟としての自分の誕生日ではないかと思う。
そしてもう一つ。
人の子の形をなし、初めて千尋と会ったあの日。
泣きじゃくっている小さな少女の前に膝をつき、泣きやんでもらおうと一枝の山茶花を差
し出した。
少女が、
「…はじめまして、…かざはや?……わたしは、ちひろ」
そう言っておずおずと微笑んでくれた、…あの日こそが、風早としての誕生日なのだと思
う。


「もう、山茶花咲いてる」
「冬だからねえ」
千尋と風早は、買い物袋をさげてのんびり歩いていた。
「あれ?…でもこっちの花、ちょっと山茶花とは違うみたい」
千尋が声を上げて指さした垣根の花を見て、ああ、と風早は優しく笑った。
「これは、茶の花だね」
「茶?…あの、飲むお茶?……じゃあこれ、お茶の木?」
「そう。この葉の新芽を摘んで、蒸してもんで縒ったらお茶になるんだよ。……ここのお
家は、垣根がぐるりとお茶だね。茶どころにはよくあることだけど、こんな街中では珍し
いな」
千尋がやわらかく微笑んだ。
「風早、物知り」
風早は苦笑する。
「まあね、一応社会科の先生だから。…こういう知識も地誌といってね、専門のうちなん
だ」
「…とかいって。…本当は、風早がお茶が好きだから詳しいだけじゃないの?」
千尋は楽しそうに笑いながら、とんとん、と数歩、風早の先を歩んでは振り返った。
「お誕生日プレゼント、本当にお茶でいいの?」
「もちろん。……でも、蔵出しの口切り用の抹茶っていうのはそこそこ値が張るんだよ。
…本当にいいのかい?」
「お兄ちゃん、アルバイト頑張ったって言ってたし」
と、千尋は忍人のことを自分のことのように誇らしげに言った。
「私も那岐も、ちゃんとお小遣い貯めてあるから。大丈夫。…好きなの選んで」
早く行こう、と差し出される白い手。
…茶の花を差し出してくれたたおやかな手を、山茶花を受け取って握りしめてくれた小さ
な手を、思い出す。風早は泣き出したいような喜びが胸に迫るのを感じた。
「……風早?」
「……っ」
呼びかけられて、我に返る。
「…ごめん、何でもないよ。……夕日が、まぶしいね」
目を細め、愚にもつかない言い訳をしたが、少女は信じてくれたようだ。…本当、まぶし
いね、と声を上げる。…そのやわらかな金の髪に、夕日の赤が照り映える。


この世界を疎んじ続ける黒い龍よ。
この世界を試し続ける白い龍よ。
あなたたちは、混沌から生まれ出たわけではない。混沌に身を沈めたこともない。
だから知らないのだ。
あなたたちが忌避する、この混沌とした猥雑な世界の中に、どれほどたくさんの、星のよ
うに美しい光が、眼差しが、命が、輝いているのかを。

あなたたちは知らないのだ。

……この、醜くも美しい世界を。