深雪晴れ


橿原へ向けて進軍中のある日、雪に降り込められて動けなくなった。すぐ前を歩く人間の
背中さえ見えないような降りだ。雪はもちろん、雨すら、最近はお湿り程度の降りしか見
たことがない常世の人間は皆呆気にとられたが、中つ国の人間は何を驚くという顔で平然
としている。
「とりあえず、天鳥船で天候の回復を待ちましょう」
提案したのは風早だ。
「このまま降り続くことはないのか」
思わず問うたアシュヴィンに、忍人や道臣以下、主だった二ノ姫達の部下は皆目を丸くす
る。
「…まあ、一〜二日続くことはあるかもしれませんが」
穏やかに道臣が言い、
「この辺りの天候では、三日と続くことはないだろう」
忍人が冷静にまとめる。慣れた顔つきにそういうものかとうなずきながら、アシュヴィン
は羨む気持ちを心の奥にしまい込んだ。
…彼らは、雨や雪というものがどれほどの恵みか、心の底からは理解していないのではな
いか、と思う。旱の時は感謝するだろう。だがそれ以外では意識にすらのぼらないのでは
ないだろうか。この素晴らしい恵みは、中つ国にはそれだけ潤沢にあるのだ。
アシュヴィンは苦い息をついた。


丸一日雪に降り込められた翌朝、目が覚めると恐ろしいほど静かだった。冬の朝は明ける
のが遅いが、窓の外を見るとじわりと東の山際が赤くなっている。すぐにも夜は明けるだ
ろう。
船内の人の気配が消えたわけではない。まだ日が高く昇ったわけではないし、寒さ故、動
き出しが鈍いのは理解できる。だから、船内の静けさはそれとして、…船の外から感じる、
この恐ろしいほどの静けさはどうだ。
「……」
アシュヴィンは手早く身支度を整えると部屋を出た。迷うことなく、自室からほど近い堅
庭へ足を向ける。
扉を押し開け、アシュヴィンは一瞬息を呑んだ。
辺り一面、真っ白だった。降り続く雪は灰色に重く見えたのに、こうして積もった雪は純
白で、ふかふかとさらさらと美しい。
外に出ると、物言わぬ彫像のような狗奴の見張りが、アシュヴィンに敬意を払うように、
無言のまま黙礼を送った。目だけで返礼してぐるりを見渡すと、見張りの狗奴以外にも堅
庭に出ている先客がいた。
庭の突端、定位置に、烏のように黒い人影。
「……忍人」
近寄って声をかけると、彼はゆるりと振り返った。
「早いな」
「俺より朝が早い人間に言われるのは恐縮するな」
アシュヴィンが首をすくめると、忍人は小さく、は、と笑った。
「…忍人。…この静けさは雪のためか」
雨の恵みが少ない常世では、積雪を見ることはない。だが、堅庭の扉からここまで歩く間
にアシュヴィンは気付いた。雪が音を吸っているのだ、だからこんなに静かなのだと。
「…ああ、そうだ」
きっぱりと言って、忍人は視線をアシュヴィンから青く広がる天空に移した。つられてア
シュヴィンも空を見上げる。雲一つない青空だ。今日はよく晴れるだろう。昨日のアシュ
ヴィンの発言に皆が怪訝そうにしたのはこういうことだったか。
「雪が降り続いた次の朝、ぽかりとこんな風に晴れることがある。…雪が音を吸い込んで、
恐ろしいほど静まりかえる。鳥の声、木々の揺れる音さえ、雪が打ち消すのではないかと
思うほど」
深雪晴れというのだ、と、忍人は言った。…そして、また視線をアシュヴィンに戻す。
「…柊から聞いた。…常世は長く旱に苦しんでいると。…昨日君が痛みをこらえる顔をし
ていたのは、この雪を羨んだからか」
言葉を飾らず率直に問われては拗ねたりくさったりも出来ず、アシュヴィンは苦笑い一つ
でうなずいた。
「…この雪を俺の国に持って行ければ、民はどれほど喜び、潤うかと、…そう思った」
「……」
忍人は真面目な顔でじっとアシュヴィンを見ていたが、ゆるり目を閉じて、首を横に振っ
た。
「俺は、そうは思わない」
「…たとえ話だ」
「君らしくもないたとえ話だ」
「…忍人?」
「その場しのぎの水を持ち込んだところで、それは永遠ではない。この戦いの果てに、黒
い太陽という元凶を滅することこそが、真に君の国を潤すことなのだと、俺は思う」
一気に言って、少し息を吐いた。
「…照れれば曇る、曇れば降る。…そして、昨日あんなに降り込められても、今朝は嘘の
ように晴れた。…それが摂理というものだ。君の国に取り戻さねばならぬのは、潤いの恵
みではない、摂理だ」
アシュヴィンはまじまじと、閉じられたままの忍人の目を見た。
「天の高みにある黒い太陽を滅せると、本気で思うか、忍人」
忍人の目がふっと開き、笑った。
「…思う」
その穏やかな笑みの底に、底冷えがするような凄みを見て、アシュヴィンは自分でもらし
くないと思いつつひそかにぞっとした。
「君も本当は、そう思っているのだろう」
不思議な確信を持った声で、忍人が言う。言い切る彼の言葉に添うように、…こぉぉん、
とかすかな音が鳴る。それは、いとわしい彼の魔剣が立てる音。
彼は、自分が命を削れば黒き太陽は滅びると考えているのかもしれない。けれど、それだ
けは何があっても阻まねばならないとアシュヴィンは思う。たとえそれが二ノ姫のために
なるとしても、中つ国の民である彼にそうする義理はないし、何よりアシュヴィン自身が、
もうこれ以上命を削る忍人を見たくなかった。
鬼神のように戦う彼の強さ美しさを、同じ戦士としてアシュヴィンは尊ぶが、それはあく
まで彼の人間としての力量を尊ぶのであって、刀に身を捧げて得る強さを美しいとは思わ
ない。血の気を失った顔よりも、戦う力にみなぎりほてる頬こそが美しいと思うのだ。
「…黒き太陽は俺が滅する」
低い声でアシュヴィンはつぶやいた。
「お前は絶対に手を出すな、忍人」
…もうそれ以上、何があっても命を削るな。二ノ姫もお前の国も、俺が共に守ってやるか
ら。俺の国のことは俺が片を付けるから。
「黒き太陽を滅して、いつか俺の国に雪が降ったら、…見に来てくれるか、忍人」
忍人は小さく目を見開いてから、口元をつり上げるようにして美しく笑った。
「…ああ。…では、君の国の深雪晴れを、いつか見よう」


 空は青く、眼下はただ白い。…橿原宮まで、あと少し。