水の中の月 如月律はひどい男だ、と、ひっそり蓬生は思っている。 彼は、大地の運命を変え、千秋が唯一ライバルとみなした、稀代の音を持っていた。 だがその音で彼らの心を奪い、彼らの中にどっしりと根を下ろす存在になったにもかかわ らず、腕を痛め、同じ音が二度と出せぬようになってしまった。 …律の音が失われても、彼らの思いは律から離れることはない。 いやむしろ、その音が失われてしまったからこそ、律は、より慕わしく、より切なく、彼 らを惹きつけてやまぬ存在になってしまった。 −…音を失う前の如月くんが、空に浮かぶ本物の月やったとしたら、今の如月くんは、水 の中の月や。 本物の月は、普通であれば到底手が届かないところにあるが、努力や年月、熱意……いろ いろなものを積み重ねていけば、場合によっては触れることが出来る。どんなに遠くても 実在はするからだ。 だが、水の中の月は、手が届くところにまで降りてきていて、一見触れられると見せかけ ておいて、…その実、絶対に、ふれたり捕らえたりすることはできない。 胸を焦がし、手を伸ばし、努力を重ねても得られない、……そのくせ、ゆらゆらときらめ いて、本物よりもはるかに美しく見える影。…それが水の中の月、失われた音だ。 −…ずるいなあ。……ひどいなあ。 生身の自分では、勝てっこないではないか。 だけど、もっとひどいものがある。 それは、身を焦がすような嫉妬を想起させる律ではなくて、蓬生の昏い嫉妬に気付こうと もしない大地だ。 嫉妬は自分の専売特許だという顔をして、千秋と蓬生の仲ばかり気にして、…自分が律に 向けている崇拝を、蓬生がどんな目で見ているかにはひどく無頓着。 「……」 時々、思い知らせてやりたい、と思う。 律を見るな、律を思うな、自分だけに心を砕けと、ねだってすがってしがみついてみよう かと、思う。 「……はは」 蓬生は静かに笑った。 −…それが出来るようやったら、苦労はせんわな。 笑いは苦い。 すがってしがみつくなんて、自分には出来ない。星より高いところにある己のプライドが、 それをさせない。 …だからはすにかまえて、…水の中の月を見つめる大地が、ゆるりと現実に立ち戻る瞬間 を、ただ待っている。 自分が執着するのは千秋です、君のことはその次ですと、うそぶく自分に大地が切なく笑 む、…その笑顔に、じくじくと昏い喜びを感じている。 …本当は、…本当は、…もうずっと、君を一番に好きなのだとは、決して言わずに。 血がにじむほど心に爪を立てて、こらえて、…あさってを見て、笑う。 …あいしている、の言葉が、唇の動きですら君にさとられないように、背を向けて、いな して、……今日も、また。