紅葉

千尋の執務室に、紅葉が一枝さしてある。昨日、忍人が持ってきたものだ。
山道行軍の鍛錬途中に見つけたのだ、と彼は言った。宮の周囲やふもとのあたりではまだ
薄く色づく程度なのだが、山頂ではすっかり見頃になっている、と。
そこまではわくわくしながら聞いていた千尋だったが、
「…君さえよければ案内するが」
続く忍人の言葉に耳を疑った。
……が、外出、…というか、デートのお誘いにしか聞こえないけど。
しかし、この生真面目な将軍が、千尋を遊興に誘うとは思えない。何かもののはずみで言
ってしまったのだろうか。…それとも。
…少しは私、期待してもいい…のかな?
千尋の中に浮かんだ淡い期待をしかし、忍人は次の言葉でぶちこわした。
「そろそろ紅葉狩りの行幸先を決めねばならない時期だろう。まだそれどころではないよ
うだと狭井君が仰っていたが…」
………行事。
全身から力が抜けるのを感じて、千尋は執務机に突っ伏してしまった。
「…陛下?」
忍人の声に狼狽が混じったことには気付いたが、顔を上げる気力が出ない。
単に、宮の仕事の一つが滞っていることを気にしての話題だったのか。なるほど、そう考
えれば忍人らしい話の展開だったとある意味納得がいくが、一瞬余計な期待を持っただけ
にダメージが大きい。
「気分でも悪いのか」
案じる声にも、
「……いえ、大丈夫です…」
なかなかすぐには復活できない。突っ伏したままそう答えるのがやっとで。
「ご提案は行き先の一つとして検討しますので、狭井君にでも場所をお伝えください……」
「…そうか」
忍人の低い声には落胆の響きがあったような気もしたが、また変に期待をするとがっかり
してしまいそうで、千尋は顔を上げられない。それをどうとったのか、
「忙中、つまらない話を持ってきてすまなかった。…御前、失礼する」
一礼する気配のあと、一瞬迷うような間をおいて、…しかし結局何も言葉を付け足すこと
なく、彼は部屋を出て行ってしまった。
ゆるゆると千尋は顔を上げる。
忍人の気配は、扉の外にも、もうない。
机の上に置かれた紅葉の一枝の色鮮やかさが目に焼き付いて、なんだか泣けてきそうだっ
た。

岩長姫が執務室を訪ねてきたのはその数日後だった。
「ちょっといいかい?」
いいかい、と言ったときには千尋の傍らに椅子を持ってきて座り込んでいるところが彼女
らしい。
「…はい」
岩長姫が執務室にやってくるのは珍しい。内政を取り仕切る狭井君は頻繁に訪れるが、軍
の仕事が主となる岩長姫は、「あたしがでしゃばらないのは国が平和だってことさ」とか
らから笑って、たいていは自分の執務室でのんびりと寝ている。
「軍の実務は葛城将軍が取り仕切っておられますからねえ。任せて安心ですもの。私と違
って」とは、狭井君の言葉である。…狭井君としては、柊には全てを任せては置けないら
しい。まあこちらは、柊の仕事ぶりが足りないというよりは、弟子に任せきりに出来ない
狭井君の性格も関与しているのだろうが。
ともあれ、珍客の来訪に千尋がかすかに首をかしげると、岩長姫は、いや別にたいした用
じゃないんだがね、と笑ってから。
「不機嫌そうじゃないか」
と切り出した。
「……」
千尋が返す言葉に窮していると、答えを待たずに、
「今年は紅葉狩りの行幸をしないって?」
と問うてきた。
「……」
そしてまた千尋は言葉に詰まる。
確かに、昨日狭井君に紅葉狩りには行かないと伝えた。狭井君は少し驚いた顔で、あれや
これやと言いつのりかけたが、「仕事が終わらないの」と言い通して納得させた。実際、
やらなければならないことは山積しているのだ。いつもいつも仕事仕事と言う狭井君が、
紅葉狩りにはずいぶんこだわる様子だったのが気になったが、逆に千尋としては、他の行
幸は行ったとしても、紅葉狩りだけは避けたいくらいだった。……無論、忍人とのやりと
りが脳内にあったことは否定しない。
岩長姫は椅子に腰掛けてうっすら笑っている。
「春はまあ、即位したばかりで花見どころじゃなかったろうが、そろそろ遠出もいいんじ
ゃないかねえ?」
「………」
どう答えていいのかわからなくて、ひたすら口をつぐみ続ける千尋を見て、ようやく岩長
姫はにやにや笑いを引っ込めた。そして、椅子から身を乗り出して、千尋の顔をのぞき込
む。
「一つ、あんたに教えておかなきゃならないことがある」
本当は彼女の役回りなんだと思うがね。
ぼそりとつぶやいた「彼女」とは、おそらく狭井君のことだろう。なぜだか岩長姫はあま
り、狭井君を名前で呼びたがらない。
「春と秋の行幸ってのはね、…正直、あんたの休養のためだけじゃない」
「……?」
千尋がその言葉に戸惑って顔を上げると、そうさ、と岩長姫は一つうなずいた。
「橿原宮の采女の中には、遠方の地から来ている娘達も多い。中央とつながりをつけるた
めに、各地の有力な部族の長達は、一族の娘達を采女にと差し出してくるんだよ。宮とし
ても、願ったりかなったりだからね。ありがたく受け入れる。……そんな娘達は、たまに
一日休みをもらえても、遠くにある家に帰ることは出来ない。といって、このあたりの土
地を知っているわけでもないから、そぞろ歩きに出歩いて、気散じをすることも出来ない。
……だから、せっかくの休みでも、宮でいつも通りに仕事をして過ごしてしまう子も多い
のさ」
ふう、とついたため息は岩長姫のもののようでもあり、誰ともつかない、寂しい采女たち
のもののようでもあった。
「年がら年中それじゃあ、息がつまっちまう。だから行幸は必要なんだよ。一人では宮か
らの外歩きもままならない、娘達の息抜きにね」
「……!」
……確かに、行幸ともなれば、千尋だけでは出歩かない。護衛の兵はもちろん、お付きの
采女たちも何人も連れて行くことになる。
それが大がかりに思えて、千尋は行幸をためらっていたのだが、しかしそれこそが行幸の
本当の役割だったのか。
唇に手を当てて考え込んでしまった千尋に、わかってくれたかい?と岩長姫は静かに言っ
た。
「あんたは聡い子だから、ここまで言えば充分だろう。……まあ、自分はだしだと割り切
って、行幸の計画を立てておくれ。楽しみにしている子が、たくさんいるだろうよ」
「…はい」
ようやく、声が出た。岩長姫もほっとした顔で少し笑う。その笑顔に、少しからかいがま
じって。
「それからね」
彼女はくすくす笑いをこらえる顔になった。
「行き先に迷うようなら、うちの不出来な弟子に、もう一度声をかけてやっておくれ」
言い方を間違ったと、落ち込んでいたよ。
「………」
千尋は、顔がこわばるのを自覚した。岩長姫の弟子は何人もいるが、ここで彼女が指して
いる「弟子」は間違いなく忍人だろう。しかし、言い方を間違ったとはどういうことだ。
彼がこの話をすべきだったと、そういうことだろうか。
固まったまま声を出さない千尋に、岩長姫はおやおやとつぶやいた。聡いあんたでも、こ
っちには頭が回らないかね、と言ってから、ぽん、と千尋の頭を一つ撫でて。
「……あの子がよく知ってる場所なら、行幸中にこっそり二人で抜け出すこともわけない
んじゃないかね?」
こそりと耳にささやかれた言葉が意味することに気付いたのは、岩長姫がふわりと身を離
してからで。
「……!」
真っ赤になったのはさらにその後で。…思わず千尋は、自分の鈍さをいろいろと自覚する。
「…ま、あたしゃよくわからない。本人に聞いてごらん」
じゃあね。
言うだけ言って、ひらひら手を振りながら烈女は姿を消した。あとに、耳まで真っ赤にな
った千尋が残されて。
見やった先には、あの日のおみやげの紅葉が一枝。赤い葉に忍人が託した思いは、自分が
こっそり期待したものと同じだったのか、否か。
勇気を出して聞いてみよう。
ゆるゆると弾んでくる胸に手を当てて、千尋は執務机から立ち上がった。
西の空が、紅葉の葉の色に染まる。きっとあの人はもうすぐ帰ってくるから。