無間の淵から


「いや、胆が冷えました」
柊はそう言ってのんびりと笑った。
「まさか若雷シャニ殿が、私に見覚えがあると言い出すとは」
しんがりを務めたためにはからずも柊の隣を歩くことになり、少々しかめっ面でいた忍人
がその嘆息を聞いて眉を上げた。
「何故だ。…曲がりなりにもお前は、彼の異母兄の腹心だろう。顔を見知っているのが当
然ではないか」
「まさか」
柊は首をすくめた。
「もしそれが疑われるような状況なら、私は夜見には来ずに天鳥船で留守居をしていまし
たよ。私一人のために、我が君が痛くもない腹を探られることはありません」
「……」
忍人は、沈黙したまま、おや、という顔になった。
「シャニ殿は異母兄で乱暴なレヴァンタを敬遠していました。父は違えど火雷ナーサティ
ヤには非常になついているのとは対照的に、レヴァンタには近寄りもしなかった。…当然、
高千穂に姿を見せたことはありません」
柊が淡々と語るのを、相づちも打たずに忍人は聞いている。
「レヴァンタ自身、非公式で常世に戻るときには私を同道することもありましたが、公式
の式典などに伴うことはなかった。中つ国の裏切り者を腹心として連れ歩いていることが
後ろめたかったのでしょうね。…だから私は、シャニ殿に面と向かって引き合わされたこ
とは一度もないのです。ちらとすれ違ったことくらいはありますが、私の方で、ああ、あ
れがシャニ殿かと思うことはあっても、シャニ殿からすれば宮にあまたといる文官武官の
一人でしかなかったでしょう。…いや、たいした記憶力です」
「……」
忍人は黙って聞いていたが、柊がそこで話を切ったと見て取ったか、顔をつくづくと見て、
ぽつりと言った。
「…声と顔が合っていない」
「……は?」
「シャニのことを語る声はいかにも楽しげだが、顔は、いっそ憎んでいると言ってもいい
ような表情だ。ばれそうになったからとは思えない。…何かある。それは何だ」
「……。……あなたはどうしてそう、勘がいいんでしょうかねえ…」
柊は一瞬絶句して、…それからしみじみと、吐き出すようにつぶやいた。
「……」
「…たいした話ではありませんよ」
「かまわない。秘されることの方が気持ち悪い。話せ」
「……わかりました。…あとで、なんだそんなことかと言っても知りませんからね。……
私がシャニ殿を見かけた本当に数少ない機会に一度、…シャニ殿が、自分は三兄弟だと言
っているのを聞いたことがあったのです」
「……」
「常世の皇にはたくさんの子供がいますが、ほとんどは女子で、男子は少ないのです。皇
の実子の男子はたった三人、…レヴァンタ、アシュヴィン、シャニだけだ。……が、シャ
ニが言う三兄弟とはこの三人のことではなかった。……彼にとっては、ナーサティヤ、ア
シュヴィン、シャニこそが、三兄弟だったのです」
「……」
忍人は顔色を変えなかったが、瞳の色を少し深くした。
「子供は素直で、…素直故に時にひどく残酷だ。…あなたにわかるでしょうか。自分は確
かにそこにいるのに、視界にも入れてもらえない、いないもののようにふるまわれる。…
それも、半分だけとはいえ血のつながった弟にです」
「……」
「私は、レヴァンタを立派な人間だったとは思いません。が、彼の歪み、彼が歪まざるを
得なかった状況は、理解できる。シャニ殿を見たらそのことを思い出したのです。……そ
れだけですよ」
忍人は、柊の言葉が終わるのを待って、静かに反駁した。
「いい人ぶるな」
「……」
「レヴァンタのその歪みにつけ込んだのはお前だろう」
柊はうっすら笑う。
「相変わらず、君は厳しい」
「…ついでだ。…一度、聞きたかったことがある」
「何ですか」
「…何故、レヴァンタにまともな策を授けなかった」
おやおや、と柊は肩をすくめた。
「それでは我が君がレヴァンタを攻略できないではありませんか」
「軍務のことではない、施政の方だ。もう少しまともな策をお前が授けていたら、高千穂
の民はあそこまで苦しまなかったのではないか」
「そちらは、私に許された仕事ではありませんでしたからねえ」
「……」
憮然とする忍人をなだめるように、柊は笑った。
「側近にもいろいろ役割分担があるのですよ。それに、レヴァンタが曲がりなりにもよく
あの土地を治めていたら、我が君は彼を滅ぼそうとはなさらなかったでしょう。この出雲
で、どうやらシャニに手を出す気がないのと同じようにね。そういう方だ。…それでは伝
説が始まらない」
「……」
淡々と語る建前に、忍人は納得していない。…それがわかるから、柊は少しだけ本音で話
すことにした。
「…あとは、…私はたぶん、彼に好きなことをさせてやりたかったのだと思います」
「……?」
「疎外され、否定され続けてきて、…そのまま命運が尽きるなら、…最後に少しくらい、
認められる幸せを知っても良いではないですか」
「…それが愚策であってもか」
「あなたに理解しろとは言いません」
吐き捨てるように言った忍人に、間髪入れずに柊は言い返した。
「あなたには理解できない。…それでいい。…それでいいんです。そういうあなたでいて
ください」
「……柊」
「行きましょう。…少しみんなから遅れてしまいました」
「……」
忍人は、足を速める兄弟子を、少し目を細めて見送った。

…一ノ姫達と国を出奔する前、柊は、いい加減を装いながらも自分以上に潔癖だったと忍
人は記憶している。兄弟子のその気性は、根っこでは変わっていないと信じてもいる。…
…けれどその心の根は深く深く、淵から手を伸ばしたくらいではとうてい届かないほど深
い心の底に沈んでいるように思えた。
無間の闇が兄弟子の中にある。彼はどれほどの歪みと絶望を呑み込んだのか。……そして
おそらくは、レヴァンタも。

「……俺は、柊。…レヴァンタを許さない。……お前のことも」
つぶやくと、まるで、それでいいのですとでも言いたげに、振り返って唇だけで柊が笑っ
た。

…許さないが、目をそらしもしない。いつか、はい上がってこい。その歪みと絶望の淵か
ら。二ノ姫という光のため、はい上がることのなかったレヴァンタのために。
……俺は、ここで、…それを待ってる。

いたわりに満ちた本心は口にしない。忍人は、あとは無言で、ただ足を速めた。