流しびな

友達が、帰省のついでに足を伸ばしたからと旅行の土産をくれた。
「お前のとこ、妹がいただろ」
菓子の箱らしい四角い包みの上に、小さな紙袋を載せながら彼は言った。
「ひな人形が有名なところに寄ったんだ。時期が時期だからかな、飾り物をたくさん売っ
てた。…うちは男兄弟だからよくわからないが、女の子はこういうものが好きなんじゃな
いかと思って。…よかったら、飾ってくれ」

忍人が家に戻って玄関を開けようとすると鍵がかかっていた。…珍しいことに、今日は自
分が一番らしい。
鍵を開け、食卓の上に菓子箱を置き、荷物を片付けに自室へ戻る。鞄からあれこれ取り出
していると、ふと、もう一つの土産袋が目についた。
女の子用で、飾るものだと言っていたが、どんなものなんだろう。
千尋に渡す前に封を切ってもかまわないだろう、もともと自分がもらったものだし、と何
気なく開けると、小さなわらの舟がころんと出てきた。…舟の上に、人形が二体乗ってい
る。
「……」
一瞬ひやりとした気持ちは、表には出なかった。…だが、眉はきつくひそめられる。
……これは、確かに飾り物かもしれないが、元々の用途は違うはずだ。
知らず、確認するように口に出して忍人はつぶやいてしまう。
「………これは、流すためのひなだ」
……。
思いにふけっていたせいか、階段を上ってくる足音に気付かなかった。不意に扉が開け放
たれて、ぎくりとして振り返る。
「忍人、帰ってた?」
那岐が、柔らかい色の髪をさらりと揺らして戸口から顔を覗かせている。
「お茶にしようって、千尋が…」
その瞳が、忍人の表情を見てひそめられ、ついで視線はその手元に落ちた。
「…?それ何」
なんとなく那岐にこのひなを見せたくなくて、心持ち手元を隠したのが逆に良くなかった
かもしれない。隠されれば隠されるほど人は見たくなるものだ。
「ねえ何」
「…」
請われるがまま、小さな紙びなを出してみせる。一瞬那岐は不得要領な顔をした。なぜ忍
人が隠そうとしたのか、すぐにはぴんとこなかったようだ。……だがやがて、ああ、と小
さくつぶやいた。
「流しびなだね。どうしたの?」
「みやげにと、もらったんだ」
努めて冷静に、感情少なく応じると、那岐はまた瞳をすがめるようにして笑った。
「千尋にかな。忍人にひな人形はないよね」
那岐としてはそれで会話を終わらせようとしたらしかったが、忍人の顔を見て気が変わっ
たらしい。
「なんて顔してるんだよ、忍人」
行儀悪く、忍人の顔を指で指した。
「……流されたのは、あんたじゃないだろ」
忍人は目を伏せる。
「…だからだ」
流されたのは自分じゃない。だから、流された者の痛みはわからない。…このひなを見て、
那岐がどう感じるのかも。
そう言うと、那岐は案外あっさりと笑った。
「忍人が思うほど、傷つきはしないよ。なぜかって聞かれたらちょっと困るけど。…なん
でかな。…たぶん、ここにいるからかな」
「…ここに?」
「そう。ここに。この世界に。この家にいるから。…なんかさ、ここにいると豊葦原のこ
とがすごく非現実的に感じるんだ」
遠い目は、豊葦原を思っているのか、はたまた。
「ここで生まれて、ここで育って、…ずっとみんなと家族でいる。…そんな空想の方が現
実のような気がしてしかたがない」
流された恐怖も、師匠への負い目も、霞がかかったようにひどく遠い。
「来たばかりの時は、そんなことなかった。あっちが現実でこっちは空想の世界、そう思
ってたのに、不思議だよね、いつの間にか」
うつむきながら淡々と話していた那岐は、ふと顔を上げ、忍人を見て笑う。
「忍人だって、そうだろ」
「…?」
「剣道は続けてる。荒魂を倒すときにも刀は振るう。…でも、そうじゃないときは、自分
が剣士だってことを忘れそうになるだろ。…勉強して、バイトして、友達と笑って、家に
帰れば可愛い妹がいる、…そんな自分が本当の自分だって」
信じそうにならない…?
那岐の柔らかな声がすとんと忍人の心の底に落ちた、気がした。
「……まあ、部屋で毎日それを見るのはあんまりぞっとしないから、予定通り千尋にあげ
れば?…千尋の部屋に飾ってある分には、僕は気にならないよ。ほんとに」
強がりでも何でもないと素直に信じられる声だった。
忍人の顔には恐らく安堵の笑みが浮かんだのだろう。那岐は瞳をすがめるようにして笑い、
その肩をとんとついた。
「…意外と、心配症だな」
「那岐ー。お兄ちゃーん」
そのとき階下から声がした。呼びに行ったはずの那岐がいつまでも戻らないので千尋が焦
れたらしい。
「せっかく熱いお茶いれたのにー。さめちゃうよー。それからこのお菓子の箱何ー?開け
ていいのー?」
忍人と那岐は顔を見合わせてふっと笑った。
「今行くよ!箱、開けていいってさ!」
忍人の答えも聞かずに勝手に那岐が応じるので思わず、
「那岐」
忍人は苦笑してしまった。
「何。いいんだろう、どうせ」
「いや、かまわないが」
「どうせ忍人のいつもの声でかまわん、とか言ったって千尋には聞こえないよ。代わりに
労力使って叫んであげたんだから、感謝して」
勝手な言い方に、こらえきれず忍人が吹き出す。その背中を那岐がほらほら早くと押す。
小さな紙びなを手に、忍人は押されるがまま、部屋を出た。

少しずつ長くなってきた春の光は、柔らかく橙色に輝いて、二人の背中を照らしている。