橿原宮は、政務が執り行われる昼の宮と女王が私生活を過ごす夜の宮とで、建物がはっき
り分けられている。
その名の通り、昼間は人が慌ただしく行き交い騒々しい昼の宮だが、夜半ともなると、時
折警護の兵が見回りで通りかかるだけで、他の人影は全くない。
那岐は陳情を行う民達が控える間にぽんと座り込んでいた。
その部屋は、宮の前庭に向かって大きく間口を開いている。狭い部屋に詰め込まれて陳情
する順番を待たせると、いらいらが増し、要らぬいざこざが増えるからだ。
その大きな間口からは白い月が見えている。那岐はそれをぼんやりと眺めていた。
どれくらいここにいるのかはもう忘れた。別に用があるわけではない。ただ、人の気配を
感じないところでぼうっとしたかった。
ふと、…物音がした。回廊を回ってくる規則正しい足音。警護の兵の見回りだろうか。見
つかるととやかく言われて面倒だと、那岐が物陰にごそごそ移動しようとするよりも早く、
足音の主は那岐の前に現れた。
「…忍人」
「…君か」
忍人は少し驚いた顔をした。
「どしたの、こんなとこで」
「それは俺が言うことだろう」
のんきな那岐の言いぐさに顔をしかめた忍人だが、生真面目な彼はまず問いに応じる。
「今日は冷えるから、警護の兵の様子を見に来た帰りだ。条件が悪いときはどうしても士
気が下がる。…その帰りに見回りのつもりでぐるりと回ったら」
そこで忍人は言葉を切り、肩をすくめた。那岐は少しそっぽを向いて頬をかく。それを見
て、再び忍人は嘆息した。
「君もしかし、柊や姫に匹敵するくらい隠れるのが上手いな。…俺の周りはどうして皆そ
うなんだ」
「隠れてたつもりはないよ。…人がいないところにいたかっただけで」
「それを普通隠れていると言うんだ」
忍人は再びの嘆息と共にそうつぶやき、那岐の傍に腰を下ろした。
「…何」
「…嫌がらせだ」
「はあ?」
「人がいないところにいたいんだろう。…俺がいたらその条件が崩れる」
…なるほど、嫌がらせだ。…が。
「…いいよ、別に忍人一人くらいなら」
忍人は少し眉を上げた。那岐は膝を抱えて座り、にこりと笑う。忍人は少し目をそらした。
「何をしていた?」
「別に。…しいてあげるなら、月を見てた。ここから見る月は綺麗だ。遮るものがない」
「…確かに、そうだな」
宮の前庭は、行事が行われることも多いので大きく広く空間がとられている。この控えの
間はその空間に向かって間口が開いているのだ。千尋が座る座も同じ場所に向かって間口
が開いているが、さしもの那岐も、そちらに陣取るのは少々居心地が悪い。
「月見って言えば、みんな秋の月を思うんだろうけど、僕は冬の月の方が好きだな。あの
凍てついた色を見ると身が引き締まる。僕はいつもだらけているから、たまにはこういう
ことが必要なんだ」
「なるほど」
間髪入れずに返ってきた答えに、那岐は思わず拗ねた。
「…直球で肯定しないでくれる?」
「否定してほしかったのか」
「…そう言われると、それもなあ、とは思うけど」
忍人が、ふ、と呼吸で笑った。那岐も笑う。…笑って、また月を見上げる。隣で忍人も月
を見上げている。
「…千尋がさ」
「…?」
「忍人のことを冬の朝みたいだと言ってた。鋭さのある光が忍人っぽいって」
「…」
自分を何かにたとえられるのが気恥ずかしいのかあるいは困惑するのか、忍人は何も言わ
ない。
「ちょっと、驚いた」
「…?」
ただ、那岐が感想を洩らすと、その先を促すようにかすかに首をかしげてみせた。
「僕は忍人のことをずっと夜だと思っていた。夜の闇だと。でも千尋には忍人は光なんだ
って、そう思ったら、なんだか」
那岐は爪をかむ。
「…ああ、だから忍人にとっても千尋は希望の光なんだなって、気付いた。……自分が忍
人の光にはなれないことも」
那岐を見ていた忍人は、開かれた扉の向こうを見た。闇に沈む静かな場所を。
「…君は、闇を厭うのか?」
那岐はゆるゆると首を横に振る。
「まさか。…僕にとっては、昼の光より夜の月や闇の方が近しい存在だった。闇は好きだ。
安らぐ」
忍人は小さくうなずいた。
「俺も、光というよりは闇や夜の方が己に近いと思う。君が嫌いでないなら、俺は闇でか
まわない。…君が、俺といて安らいでくれるなら、うれしい。…俺も、こうやって君と語
るひとときを大切に思っているから」
その瞳は全てを包み込む闇のように広く優しい。那岐は、心の中で何かがじわりと溶けて
広がるような気がした。それは安堵のようでもあり、自分が勝手に作り出し、ふくらませ
た妬心のようでもある。安堵なら心にしみて残ればいい。妬心ならば心から溶け出させて
どこかへ流してしまおう。光ならば照らしだし暴いてしまうことも、闇は優しく隠して許
すだろう。

月の光が銀の雫になってふりそそぐ。冬の夜は静かに長く、身を寄せ語らう二人に優しか
った。