満月の夜に生まれた君に

月が中天にかかっていた。
忍人はぼんやりとそれを眺めていた。
十四夜の月は、昼と見まごうほどとまでは言わないが、それでも皓々とまぶしく、冴え冴
えと美しい。
光を手のひらで受け止められると錯覚できそうなほどだった。
忍人が手を月に向かってさしのべようとしたとき、誰かが堅庭に入ってきた。
忍人は一瞬警戒して、すぐに弛緩する。
「……珍しいですね、君がこんな夜更けに堅庭にいるなんて。…いつもならもう休んでい
る時間でしょう?」
風早がおっとりと話しかけながら近づいてきて、忍人の傍らで足を止めた。
「君こそ、堅庭に出てくるとは珍しいな、風早」
風早はちらりと忍人に視線を流し、ふふ、と笑う。
「…たぶん、同じ理由だと思いますよ」
互いの意図を確認するような間があって。…忍人の方から口を開く。
「…いい月だな」
「望月は明日ですね。この空模様なら、明日もいい月見ができそうだ」
「……ああ、」
そうだな、と忍人が同意しかけた時だった。
堅庭にもう一人誰かが入ってきた。…いや、入ってきた、というよりは、駆け込んできた、
というのが正しい。
「風早!」
「…千尋?…どうしました?」
なぜか千尋は必死の形相をしている。呼びかけられた風早はもちろん、忍人も不審さで思
わず千尋を凝視した。
「今日、…今日、何日?」
「…………は?」
風早はぽかんと目を丸くした。
千尋が焦れてその袖を引っ張る。まるで母親に甘える子供のようだな、と忍人はちらりと
思った。
「もう九月になってるよね?今日は九月の何日?」
「…えーとですね」
忍人には、千尋が何を言っているのかちんぷんかんぷんだが、風早は一応意図を察したら
しい。どう説明しようかという顔で額に一本指を置いた。
「豊葦原ではね、千尋。あちらの世界のような太陽暦は使っていないんです。太陰暦と言
ってね、月の満ち欠けで日を数える。…だから、正確な意味であちらの月日と対応させて
教えることは出来ないんですけど、…いったい何が知りたいんです?」
「那岐の誕生日!!」
千尋の勢い込んだ答えに、ああ、と風早はほんわり笑った。
「九月の十五日でしょう?まだ過ぎてないかな、どうかな?」
「大丈夫、明日ですよ。…元々那岐は長月の望月の生まれで、それをあちらの暦で九月十
五日と読み替えただけですから。…今日が十四日の月ですから、那岐の生まれた日は明日
です」
「よかったー!間に合ったー!…ありがとう風早、お休み!」
騒ぐだけ騒いで、千尋はまたぱたぱたと帰って行ってしまった。
おやおや、と苦笑する風早と、不得要領な顔をした忍人だけがまた堅庭に残る。
「……風早。…姫は何を大騒ぎしているんだ」
「はは。確かに大騒ぎだったね。…ええと、説明が長くなってもかまわないかい?」
忍人が肩をすくめると、風早はゆるゆると話し始めた。
「豊葦原では、毎年年の初めに全員が一斉に年を取る。けれどね、俺たちが過ごした異世
界では、その人が母親から生まれてきた日を覚えていて、毎年その日に年を取ることにな
っていた。…俺が年を取る日と、君が年を取る日は違う日なわけだ。誕生日とさっき千尋
が言ったのはその日のこと」
風早は、ふ、と笑って。
「誕生日は、もともと、本人にとって大切な意味を持つ日だけれど、その人を大事に思う
人にとっても大切な日。その日に彼が生まれてくれたから、自分は彼と会えたわけだから
ね。…だから、あちらでは、大事な人の誕生日は幸せを祈ってお祝いするものだった。…
千尋はたぶん、その風習がこちらにもあると思っているんだろう。だから大騒ぎしている
んだ」
そこで言葉を切った風早は、んん、と少し首をひねった。
「…もっとも、こちらにその風習がなくても、彼女は那岐の誕生日を祝うだろうな。…千
尋にとって大切な日だからね」
「那岐が姫にとって大切な仲間だから?」
忍人が静かに言うと、風早はうれしそうな顔で笑った。
「そう。…大切な家族だから」
忍人はかすかに優しい笑みを浮かべた。
「……なるほど」
それからゆっくりと空を見上げる。
「…明日も、いい月だといいな」
「……ああ、そうだね」
風早も同じ月を見上げて、静かにうなずいた。

その次の日。
忍人はいつも通りに兵の訓練を行って、昼をかなりすぎてから天鳥船に戻ってきた。兵た
ちは皆、死屍累々といった顔つきをしていたが、半数以上の者は食堂へ駆け込んだ。持っ
て行った糧食では足りなかったらしい。…あれでまだ食欲があるようなら、もっと厳しく
しても大丈夫だな、と鬼司令官の副官たちは内心考えている。
その鬼司令官は、帰ってきてそのまま堅庭に行った。
庭に入って、ふと、首をひねる。
那岐が、忍人がいつも立つ場所に座り込んで、足をぶらぶらさせていた。
彼はいつも堅庭にいることが多いが、サザキや日向の男たちがうろうろしている庭の上部
にいることはあまりない。彼は彼の秘密の居場所を持っていて、普段はそこでごろごろ昼
寝をしているはずだった。
…だが今日は。
「……那岐」
忍人が声を掛けても振り向きもしない。が、忍人の次の言葉には反応した。
「…何をそんな、わかりやすいところで拗ねているんだ」
「誰が拗ねてるって」
…そう言って忍人をねめつける、…その顔が既に。
(拗ねてるじゃないか)
忍人は思った。
「僕は別に拗ねていない」
が、那岐はそう主張した。
「ただ、みんながこそこそしているのが気に入らないだけだ」
「……こそこそ?」
忍人が首をひねると、ようやく那岐がまともに忍人を見た。
「忍人はぐるじゃないのか?」
「……ぐる?」
那岐が何を言っているのかさっぱりわからなくて、彼の言葉をオウム返しに繰り返しなが
ら、忍人は眉間にくっきりしわを寄せた。
「なんだか、今日は朝からみんな変なんだ。千尋も風早も、布津彦や遠夜も、みんなこそ
こそしてさ。何か僕に隠してる」
「…今日?」
忍人は思わず反復した。…脳裏をよぎるのは、昨夜の月と、大騒ぎしていた千尋の声。
「そう。昨日までは何にもなかったのに。…今日は朝からずっと…忍人?」
「…は?」
「今、ああ、って顔をしただろう」
忍人は首をかすかにかしげた。
「…したかもしれないな」
「したかもしれないな、じゃなくて、した。絶対した。…何を知ってるんだ?」
那岐は柳眉をつり上げた。
「いや、…姫や風早が何をこそこそしているのかを知っているわけではないんだが。…俺
が今日船を出たときは、まだ姫は起きていなかったし」
「でも何かを知っているんだろう?」
まあ、…知っている、と言えば、…知っている、のかもしれない。
「…忍人」
那岐が機嫌の悪い猫のような声を出す。なだめるように、あやすように、忍人はかすかに
笑った。
「…今日は君の大切な日なのだそうだ」
「・・・・・・・・は?」
那岐は、姫がよく言うところの『鳩が豆鉄砲を食ったような』顔をした。
「君の生まれた日に君に幸いがあるように、俺も祈る」
「・・・・・・・・・・」
忍人の言葉を那岐が反復して。…その言葉が那岐の腑に落ちて。
「ああー!」
叫んで那岐が立ち上がるのと、
「那岐、お待たせ!」
千尋が堅庭に駆け込んでくるのが同時で。
ぐるん!と千尋を振り返った那岐が、
「なんだよ、そういうこと!?」
と叫ぶのと、
那岐と忍人が並んでいるのを見た千尋がはっとなって、
「いやー!忍人さんに口止めするの忘れてたー!!」
と悲鳴のような声を上げて絶叫したのが、かすかな時間差こそあれ、またほぼ同時だった。

その日、サプライズパーティとやらに失敗した千尋がいじいじといじけるのを、風早が必
死になって慰めている横で、俺が行くときにまだ起きていない姫が悪い、と忍人がうっか
り発言してしまって、いっそう千尋をいじけさせて話をややこしくするのだが、それはま
た別の話である。