なごり雪

昼間だというのに、その部屋の中は暗かった。
音を立てないように気遣いながら柊はそっと中に入り、後ろ手に扉を閉める。そのまま足
音をひそめつつ、部屋の中央まで進んだときだった。
「音を殺して入ってくるな。逆に警戒する」
気難しげな声がぴしりと彼を打った。
びくりと肩をふるわせて、
「起こしましたか」
柊が問うと、
「いや、起きていた」
寝台に横たわったまま、忍人が答える。柊は少し気遣わしげなしわを眉間に寄せた。
「…気分はどうです?体調は?」
「良くも悪くもない」
細いため息まじりに気怠そうに答えて忍人は目を閉じ、
「……そんなことを聞くためにわざわざ来たわけではないのだろう?」
…やや間を開けてから、思い出したようにつぶやいた。
「…本当に警戒されているんですね、私は」
柊は何ともいえない顔になった。…それから薄い笑いを浮かべて首を振り、
「特別な用事がなければ、弟弟子の容態を見に来ることも許されないのですか?」
少し寂しそうにつぶやくと、忍人はややひるんだようだった。
寝ている青年の感情の動きをはかりながら、柊は一歩ずつ寝台に近づく。近づくことによ
って忍人の警戒心が増すことも、怒りが跳ね上がることもない、とようやく確信できたの
は、彼の寝台からほんの数歩離れただけの場所だった。そこでやっと柊は、ふう、と安堵
のため息をつく。
「…熱はありますか」
「自分ではわからない」
忍人はむっつりと答えた。
どんな相手でも無視はしないのが、この弟弟子のいいところでも悪いところでもある。
「額に触れてもかまいませんか」
そっと聞くと、彼はじろりと柊を見上げてから、
「別に許可など取るな。…好きにしろ」
言うだけ言って目を閉じる。
柊は笑って、……忍人の上にかがみ込み、唇でそっと額に触れた。
…額はなめらかで、ひいやりとしていた。
「…柊」
感触でそれと気付いて、忍人はまた眉間に深くしわを刻んだ。
「…手で触れる、とは言いませんでしたよ」
飄々と柊はうそぶく。
「………」
とたん、寝台から立ち上る不機嫌な気配に、柊は片頬だけゆがめて笑い、なだめるように
言った。
「…私の誕生日なんです。…今日は」
不機嫌な気配は少し収まり、忍人が身じろぐ。閉じられていた瞳も開いて、柊を見た。
「誕生日。…その人の生まれた記念日です。…我が君が時折そういう話をなさっていたの
ですが、あなたは聞いていませんか?」
豊葦原にはない言葉だが、常世にはある風習だし、千尋や那岐には耳親しい言葉で口にす
ることもしばしばあった。忍人も初耳ではないはずだ。少し記憶を探ったようだが、やや
あって、
「確かに、聞いた覚えが」
と彼はつぶやいた。
「…ですから、今のは祝い、ということにしておいてください」
どうせそっぽを向かれるのだろうなと思いながら柊が笑いかけると、思いがけず、まっす
ぐに顔を向け、静かな瞳で忍人が柊を見た。
「それだけか」
静かな問い。…問いながら、どこか確信を秘めた声。
………ああ、彼はもう知っているのだ。
「厭ですね。…あなたはどうも、聡くて」
「………」
その柊の軽口には、忍人は何も言わなかった。ただ促すようにじっと見つめ続ける。
この瞳に見つめられて、根負けしない人間はどうかしている。双手を挙げてその瞳に降参
しながら柊は思った。
「…そうですね。本当は、祝いというよりは、未練なんです」
顔も見ないで行こうと思っていたのに。あとかたもなく消えるつもりだったのに。
足はこの部屋に向かい、手は扉を開くことを選んだ。
「…醜いものですね、未練というのは」
未練の一言で、これから柊がどうするのか、忍人はきちんと理解したようだった。いや、
未練という言葉を聞く前から、彼は知っていたに違いないのだ。これから柊がすることを。
「…どこへ行く」
「遠くへ」
「…もう会えないのか」
「………」
その問いに、柊は答える言葉を持たなかった。
会えないわけではない、と思う。…恐らくまた歴史はめぐり、既定伝承は繰り返す。花の
下で幼い忍人と自分は再びめぐりあうだろう。
だが、今の忍人にはもう会えない。今この既定伝承の中に生きている忍人には。
会えると言っていいのか、会えないと言えばいいのか。
迷う沈黙を肯定と受け取ったのだろう。そうか、とつぶやいて忍人は疲れたように目を閉
じてしまった。
それをしおに寝台から離れようとした柊を、忍人の声が止める。
「もし姫が気付いて、行くなと仰ったら」
柊はゆるゆると首を横に振る。目を閉じているのに、衣擦れの音のその響きだけで、忍人
は答えを悟ったようだ。……本当に、厭になるほど聡い子供だ、と柊は心の中だけでひと
りごちる。
「…では、もし」
問いは続いた。続いたが、冷静な忍人の声がふと揺れた。
「もし、俺が行くなと言ったら?」
「……!」
柊はまじまじと、寝台に横たわる弟弟子を凝視した。ゆるゆると忍人の瞳が開き、再び柊
を見つめた。
その、うっすら青みがかった黒曜石のような瞳。いつにないかすかな揺らぎさえ、美しく
て、愛おしくて。
………えぐりとって、一緒に持って行きたい、と、柊は物騒なことを考えた。
……だが。
「君は、言わないでしょう?」
柊がこう言えば、忍人は決して、行くなとは言わない。
醜い未練をさらけ出す失態を演じた自分だが、その未練を断ち切る矜持だけは捨ててはい
ない。
黒曜石の瞳は揺らいだ。……だがやはり、
「……」
忍人は、行くな、とは言わなかった。
「……」
再び瞳が閉ざされる。柊は彼の白い貌をしばらく眺めたが、もうその唇は開かない。静か
に寝台に横たわる身体の動きは、浅く繰り返される呼吸だけ。
吐息を一つもらして、柊は今度こそ寝台に背を向けた。数歩で部屋を横切り、扉に手をか
けたところで足を止めたが、背を向けたままつぶやく。
「……おやすみなさい」
別れの言葉を言わなかった自分に、彼は何を思っただろうか。
「…いずれ、また」
低い低い声が幻のように聞こえた気がしてはっと柊は振り返ったが、寝台の忍人は変わら
ず塑像のように静かに横たわっている。
「……」
柊はゆるゆると扉を開けて部屋を出た。
風はまだ冷たいが、光だけは春の色にまばゆい宮の庭の隅に、ひっそりと根雪が溶け残っ
ている。
あの雪もいつかは溶ける。
「ならばこの未練も、いつかは溶けてなくなるのでしょうね」
心にもないことをつぶやいて、ゆるりと彼は歩き出した。玉垣へと、その外へと。

新たに時がめぐるまでは、決して消えない未練と共に。