涙

木陰で一曲弾き終えて、水を飲もうとした大地の耳に、ぱんぱんぱんと単調でおざなりな
拍手の音が聞こえてきた。
「…」
苦虫を噛み潰したような顔になるのをこらえ、目を閉じて息を整えてから振り返る。
予想したとおり、立っていたのは蓬生だった。挨拶代わりか、眼鏡のフレームを少し手で
押し上げ、にやりと笑う。
「最善を尽くしとう?…それとも気の毒に、代わりのヴィオリストが見つからんかった?
…だとしたらずいぶん、星奏のオケ部は層が薄いんやね」
大地は冷えた笑いで蓬生を見返した。
「あいにく、同じ挑発に乗るほど俺も安い男じゃない。…お望みなら、休憩代わりに少し
遊んであげてもいいけど、どうせするなら違う話をしないか?」
「…違う話?」
蓬生はゆっくりと木にもたれた。本腰を入れて居座る気になったらしい。大地もヴィオラ
をケースに下ろす。
「…そう、たとえば、君と東金の話だ」
大地の言葉に蓬生が眼鏡の奥の瞳をすがめる。
「…というと?」
「君たちは今コンクールに参加している最中で、アンサンブルを組んでいる。…その割に、
君たちは少し不自然なほど、毎日互いに離れて生活しようとしている」
変じゃないか?
それは大地が少し前から本気で不審に思っていたことだった。
「横浜が地元の俺たちはともかく、君たちは、…特に君は、この土地に知り合いすらいな
い。東金べったりで過ごす方が当然だと思うのに、見かけるたび、君は一人だ」
蓬生の表情が読めない。いや、表情が消えた。ただ、瞳は大地から離れない。大地の真意
を測っているのか、それとも。
「…なぜだ?」
シンプルな問いを、大地は投げた。
「…」
返事は返らない。…返るとも思っていない。待つことすらせず、次の爆弾を投げる。
「なぜなのか、…君たちを見ながら俺なりに考えてみたんだ。……そうしたら、一つだけ
見えてきた」
これが正しいかどうかはわからないが。内心ではそう思っていることは表に出さず、大地
は静かに言う。
「なあ、土岐。…東金は君から少し離れてみようとしているんじゃないだろうか。事情は
わからないけれど、たぶんそれは君を思っての行動なんだろう。その配慮がわかるから、
君も敢えて東金と距離を置いている」
大地は言葉を切った。
「……知ったかぶりして、何を」
蓬生は一言だけ言って、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……あんまりつまらん話で、眠たなったわ」
今日は君と遊んでもおもろない、と、もたれていた木から身を起こし、背を向ける蓬生に、
大地は静かにつぶやく。
「…そう、これはあくまで俺の勝手な想像、君の言い方を借りるなら、知ったかぶりだ。
なのになぜ、君はもっと否定しないんだい?」
大地の中でむくむくと、何かが動いていく。オセロのコマが白から黒にぱたぱたとひっく
り返っていくように、予想が少しずつ確信に変わっていく。
「いつもの君ならもっと言葉を尽くして反論しているはずだと思うんだけどね。…それと
も、図星をつかれて反論できない?」
「…あほらしすぎて、反論する気にもならへん!」
返ってきた言葉は、常の蓬生らしくもなく、強く鋭かった。
はっ、としたのは大地だけではなかった。声を上げた蓬生自身、自分の声の高さに驚いた
ようだ。そんなはずではなかったと、唇をかむのが横顔でも見て取れる。
「…君はほんまに、厭な男や」
吐き捨てるように蓬生は言った。
「…なんでこんなにいらいらさせられなあかんのん」
その声が震えているように聞こえて、大地は苦い何かを飲み下した。
自分も、蓬生には繰り返しいらいらさせられている。けれど、こんなふうに仕返ししたい
わけじゃなかった。
ただ、本当に不思議で。去年も一昨年も、いつだって二人は一緒にいたのに、何故今年に
限ってと、ずっと思っていたから。
「……悪かったよ。…言い過ぎた。…言えた筋合いじゃないかもしれないが、忘れてくれ。
君の言うとおり、俺のただの何の根拠もない妄想だ」
と、ふと、…横顔で蓬生が笑うのが見えた。…苦く、ひそかに。
「…根拠ない、とまでは言うてへんやん」
「……っ、え…」
蓬生はそむけていた顔を少しだけ大地に傾けてみせた。
「…君は、よう見とう。……せやから余計に、いらいらする」
むかつく、と小さくつぶやいた声が泣きそうだった。白い貌は怒ってはいても、涙を浮か
べてはいないのだけれど。
「…帰るわ」
ふらり、歩き出す蓬生を、大地は呼び止められなかった。何か心に穴が空いたような気持
ちで、ぼんやりと見送る。
二度と彼は振り返るまい。大地に話しかけることもするまい。
そう思うと、心の隅がじくじくと痛い。
ところが。
「…!」
数歩行って、蓬生はふと振り返った。静かな白い貌に、小さいながら笑みさえ浮かべて。
「…次は、こうはいかへんよ」
軽く睨んで、今度こそ振り返らずに歩いていく。風がその長い髪をもてあそび、揺らすの
を呆然と大地は見送る。
「……」
視界から蓬生が消えたとたん、ふうっと大地の中から何かが抜けた。どすん、とその場に
腰を下ろす。子供のように三角に膝を抱えて、その膝の間に額を埋めた。
言い過ぎた。やりすぎた。大地は唇をかむ。後悔がひどく苦い。
けれど、なぜかそんな大地を蓬生は許した。次がある、と告げて去った。
理由はわからない。あるいは気まぐれか。それでも次があることに大地はほっとしていた。
セミファイナルはこれからだ。後味の悪いまま、彼と舞台で向き合いたくはない。互いの
力を出し切った対戦でなければ、この夏を終われない。
あるいは蓬生も、そう思ったのかもしれない。だから思い出したように振り返り、あの白
い貌で笑ってみせたのかも。
「……」
思い返す、蓬生の白い貌。大地がどんな言葉を投げつけてもちらりとも涙を浮かべなかっ
たあの貌。

彼が本気で泣くときは、きっと涙はこぼさない。