波に寄する音 新執行部決定のミーティングが終わった直後から、大地はその視線に気付いていたのだが、 敢えて無視していた。その方が双方のためだと思ったからだ。しかし視線の主にはそのつ もりがないようで、いつまでも大地を追ってくる。 「……」 わざとらしい大きなため息をついて、大地は不意にぐるりと振り返った。 大地の行動を予測していなかったわけではないだろうに、振り返った大地と視線を合わせ た少女は驚きで身をすくませ、目を見開いていた。 もっとも、彼女が驚いたのは大地の行動ではなく、大地の表情だったかもしれない。 大地はいつも、女性に対してはとりわけ、笑顔を絶やさない人間だった。だから彼女が大 地のこんな無表情を見るのは初めてだったろう。だが、時として笑顔が邪魔になる場面が あることを大地はちゃんと知っている。…たとえば、今。 「何か言いたいことがあるんじゃないか?」 いつになく挑発的な大地の言動に少々ひるみながらも、しかし彼女も退かなかった。いつ もの彼女なら逃げ出しているはずだろうにと思うと、大地は内心で苦笑する。 …恋する女の子の力は、強い。 「…どうして、あなたが副部長なの」 声がかすれているのは、気持ちが強すぎるからだろうか。 「普通科のあなたに、音楽の何がわかるっていうの?…なぜあなたが」 「…一年半一緒にやってきて、音楽がわからないと決めつけられるのは不本意だな。経験 の多少を問われるならともかく、楽曲の理解に、普通科と音楽科が関係あるのかい?」 まだ言いつのろうとしている少女を、大地はいったん遮った。ぐずぐずとらちもない繰り 言が続きそうだったからだ。 「…とはいえ、君の論法を借りるなら、普通科だからこそ、俺が副部長をやる意味がある、 と俺は思ってる」 「…どういう、意味?」 言いつのろうとした言葉を遮られ、思いがけないことを言われて、彼女は逆に少し落ち着 いたようだ。さっきかすれていた声はいつものなめらかさを取り戻した。 「部の執行に必要なのは、音楽の知識だけじゃないってことさ。…予算のとりまとめ、練 習スケジュールのチェック、公演会場や練習場所の手配、他部や学校側との折衝…。…音 楽とは関係ない雑事が山積みだ。…そして、君たちが満場一致で部長に選んだ律が、そう いうことの処理能力に長けているとは、俺にはとても思えない。音楽一筋だからね。…律 に限らず、君たち音楽科の人間には多かれ少なかれそういう面がある」 大地はそこでいったん言葉を切って、肩をすくめてみせた。 「そこで、普通科の俺の出番ってわけだ。音楽経験はともかく、いろんな処理能力には自 信があるよ。…だから立候補したし、律もそれを理解しているから俺を副部長に選んだん だと思うけど」 女性受けがいいと普通科の友達によく言われる愛想笑いをそこで浮かべて見せたのが、し かし、少々間が悪かったのかもしれない。…少女の眉間にぴりりとまたしわがより、目が とがった。 「…そんなの詭弁だわ」 苛立ちが露骨に声に出ている。 「…もっともらしいことを言って、本当はあなたは、単に如月くんのそばにいたいだけじ ゃない!」 …大地は思わず笑ってしまった。 「…本音が出たね」 「…!」 びくりと少女が肩をふるわせる。 「…君の方こそ、音楽云々はただの詭弁で、本当は律のそばにいたいんだろう」 「……」 唇を噛みしめていた少女の瞳から、一粒だけぽろりと涙がこぼれた。 「……」 大地はため息をついて、ごめん、と小さく謝る。 「…言い過ぎた。…君が俺の痛いところを突いたから、少し冷静さを欠いたみたいだ。… 悪かった」 「…先につっかかったのは私よ。…榊くんが謝ることはないわ」 泣いてごめんなさい。卑怯ね。 少女は静かにつぶやいた。涙を盾にしない潔さが美しいと思う。その潔さに敬意を表して、 大地は静かに言葉をつむいだ。 「…本当に律の側に近づきたいなら、君にはもっと直接的な方法があるだろう。…楽器を 手にとって律の音に近づく努力をすればいい。…君になら、俺より容易に音で律を支える 立場になれるはずだ」 くす、と、…その日初めて、少女が笑う。 「…本気で言ってる?」 「…?」 「…だとしたらあなたも、意外と鈍いのね」 さびしげなその微笑みの意味が、大地には本気でわからない。 「律くんとあなたの音に割り込めるようなら、…こんなことであなたにくってかかったり しないわ」 「…俺…の、音…?」 「……上手下手の話じゃなくて、音の相性よ。…だから余計に、たちが悪い」 技術の話だったら良かったのに。さびしそうに彼女は目を伏せる。 「でもそうね。…もっと如月くんの音に近づきたい。…あなたのように寄り添えなくても、 傍で奏でていて恥ずかしくないくらいには」 ありがとう。…少し、頭が冷えたわ。 言い置いて去っていく彼女の背を、どこか呆然と大地は眺めた。 彼女の言葉の意味は、まだ大地には飲み込めない。…だが心のどこかで、じわじわと何か が己の理性を侵食していく。波打ち際に立って、足元の砂が少しずつ少しずつ波にさらわ れていくときの不安感にも似た、奇妙な頼りなさ。 酩酊のような感覚に、大地はふと頭を振った。 …なぜか無性に、律のヴァイオリンが聞きたかった。