南音北声

軍議の後、戦いの陣形のあれこれについて千尋に説明をしていた忍人が、ふと顔を上げて
耳を澄ますそぶりをした。
「…琴の音がする」
千尋も顔を上げ、耳を澄ました。船内から聞こえる音ではない。本当にかすかなかすかな
音。ああ、もしかしたら、と少し笑う。
「たぶん布都彦が。船内で弾けばいいのに、きっと外で弾いてるのね」
この間も、滝のそばで弾いていました。
「私も少し弾かせてもらったけど、全然駄目。音が出るだけです。忍人さんは?」
「教養の一つだからたしなみはしたが、俺の琴も、いずれ南音北声にたとえれば北声の類
だ。聞くに堪えんだろう」
「…ほくせい?」
…とりあえず、方角でないことはわかるが。
千尋が眉をしかめたのを見て、忍人がおかしそうに唇をゆがめた。こんなことも知らない
のか、とか、風早は何を教育しているんだ、とか言い出さないところを見ると、一般常識
というわけではないようだ。
「この陣形については一通り説明したと思うが。…もういいだろうか?」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
自分が忍人と話している本題を思い出して、千尋はあわてて、まだよくわかっていなかっ
た後陣についての質問を始めた。

「…風早ー」
「なんですか千尋?」
朱雀の磐座でぼんやりしていた風早は、千尋を振り返ってやわらかく笑い、…それからお
やおやと目を丸くした。
「…数学の宿題が片付かないときのような顔をしていますね」
「…似たようなものだと思うー」
千尋は首をかしげながら、
「ねえ、なんおんほくせいって言葉、知ってる?」
「…なんおんほくせい?」
いつもは、ああそれは、という風早も、さすがに一瞬首をかしげた。
「聞いたことはある気がするな。…どういう文脈で出てきたんです?」
「布都彦の琴の話をしたとき、忍人さんがちらっと言ったの。自分の琴は、南音北声で言
えば北声の類だ、って」
風早は指であごをとんとん、とたたいて、ああ思い出した、とぽつりと言った。
「こういう逸話ですよ。ある男が琴を弾いていた。どうにも上手く弾けないけれど、それ
を自分の腕がまずいのと、琴のせいにしていた」
「…うん」
「すると、彼の琴を聞いていた師匠がこう言った。君子が国を思う心で弾いた琴は燕や南
の風を呼びこみ、国を潤す。けれど、殺伐とした心で弾いた琴は、北の風の雄叫びしか呼
ばない。…男は、自分の琴のまずさを自分の腕前のせいにしていたことを恥じた。自分の
琴がまずいのは、自分の心のためだと悟って、…悩みに悩んでやっと琴を弾く心映えを掴
んだと思い、おそるおそる琴を弾いた。…すると師匠はもう何も言わなかった」
「…よかったね」
「話がここで終わればね」
「…?」
風早はかすかな苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「この話はこう続くんですよ。師匠は何も言わなかったけれど、悩みに悩んだ男の琴は、
やはり殺伐とした北声の気に満ちていた。師匠が何も言わなかったのは、ただ、悩み続け
た彼を哀れんだからに過ぎないと」
「………」
黙り込んだ千尋に、しかし風早はやわらかい笑みを向けた。
「…忍人が、何を考えて自分の琴を北声と称したのかは、俺にはわかりません。…でも、
俺の知る限り、昔の忍人の琴は結構な腕前でしたよ。琴については全く不調法な俺に言わ
れても、忍人は苦笑するでしょうが。……だから、たぶん、千尋にそう言ったのはただの
謙遜だったんじゃないかな」
「…うん、そうだね」
風早に向かって笑いかけながら、しかし千尋は、心の中で考え込んでいた。
…本当に、ただの謙遜だろうか。
あのかすかな琴の音を聞き取って優しい顔になった人が、なぜ謙遜するのだろうか。

千尋は両手に布包みを抱えて堅庭に入っていった。食事を終えた後で宵闇の堅庭の空気を
楽しんでいた者も、夜が深くなってきて三々五々船内に戻る頃合いだ。
誰もいないように見える庭の、一番端。
いつもの場所に、彼はいた。
「…忍人さん」
呼びかけると、ゆるやかな仕草で、けれどぴりりとした姿勢で振り返る。千尋を見て、ほ
んのかすかに目を伏せて微笑みに似た表情を浮かべた。
「君か。…何か?」
千尋は忍人と視線を合わせて少し笑ってから、抱えた布包みをゆっくりと開いた。
「……!」
忍人が少し目を見開く。千尋が取り出して見せたものは、小型の琴だった。
「…それは」
「布都彦から借りてきました。…弾いてほしいなと思ったんですけど」
そう言って、千尋は少し忍人の表情をうかがった。
「…あの、だめですか?」
少し虚をつかれた顔をしていた忍人は、千尋が付け加えた一言にふと表情をゆるめた。
「そこまで怖々聞かなくても」
かすかな葛藤は眉間のあたりに見受けられたが、それでも彼は穏やかに応じた。
「弾くくらい、かまわない」
さほど君に楽しんでもらえるとも思わないが、と、また少し迷いを見せつつも、忍人はゆ
るりと千尋が持つ琴に手を伸ばし、…ふと、その指を止めた。
「…場所は、変えてもかまわないか?」
「…?はい、もちろん」
「ここで弾くと、後で兄弟子連中に間違いなく話のタネにされる」
普段はあまり兄弟子呼ばわりしないのに、わざとらしくそう言って作って見せた渋面が、
彼には珍しく少し子供っぽく見えて、千尋はこっそり笑った。

琴を持った忍人が訪れたのは天鳥船からほど近い森の中のせせらぎだった。見た目よりも
水量の多い川で、音を立てて流れている。
河原に座し、ゆるゆるとつま弾いて音を確認して。
忍人はゆっくりと、琴を弾じ始めた。
それは、雨の音のような曲だった。激しく降る雨ではなく、柔らかすぎる雨でもなく。ぽ
つりぽつりと音を立てて降る、暖かくなった季節の雨のような。忍人に無理矢理琴を頼ん
だ千尋の少し怖じた心をじわりと溶かすような。
暖かくて、…とても優しい曲だと、千尋は思った。
ふっ、と音がやんだ。…どうやら一曲が終わったらしい。千尋はほう、と吐息をついてほ
ほえんだ。
「…きれいな曲ですね。とても優しい、暖かい曲」
忍人は千尋を見て、少し困ったような笑顔を見せた。
「ほめてくれるのはうれしいが、俺の手はさほどのものじゃない。…君はあまりこの琴を
聞いたことがなくて、物珍しさからそう思うんだろう」
言いながら、忍人の手はゆるゆるとなだめるように琴を撫でている。まるで自分が弾いた
ことを謝るかのような仕草だった。
「…布津彦や遠夜のように、戦い以外のことにも熱意を持って取り組める人間と、俺は、
…やはりどこかちがうんだ」
忍人ははっきりとは言わなかったが、その言葉の裏には自分には戦うことしかできないと
いう意識がある、と千尋は感じた。
…でも。
千尋は首をかしげてみた。
琴を知らない私が忍人さんが上手いかどうかを判断することは、確かにできないのかもし
れない。だけど、私がこの曲をきれいで優しくて暖かい曲だと思ったのは、珍しさからだ
ったろうか?
……ううん、ちがう。
「…私には、確かに琴の善し悪しを判断することはできないかもしれませんけど。…でも、
私がこの曲をすてきだと思ったのが、物珍しさからじゃないことだけは確かです」
「…?」
千尋がそういうと、忍人は何も言わず、ただ不思議そうな目でじっと千尋を見つめた。
「…だって、弾いてくれているのは忍人さんだもの」
千尋は、笑う。自分が気づいた事実にうれしさがこみ上げてきて、笑う。
「好きな人が自分のために弾いてくれるなら、それがどんなに下手だとしても、暗くて悲
しい曲でも、きっときれいで優しい曲に聞こえると思う」
「……!」
忍人が、千尋の言葉にかすかに耳を赤くしたのがわかる。千尋はかまわずに言いつのった。
「忍人さんだって、そうでしょう?」
「…は?」
「私がどんな駄目な生徒でも、我慢して陣形のことや戦術のことを教えてくれる。それは、
私が少しでもいい将軍になるようにって、…私のことを思ってくれるから、でしょう?…
ええと、少しは私のことを…その、大事だなって、…思ってくれるからでしょう?」
「……ああ」
忍人は、どこかぽかんとした声で言った。その顔が、ゆるゆるといったんしかめられ、そ
れから苦笑でふわりとゆるむ。
「……そうか、…南音とは、…そういうことか」
くっくっくっと本当に楽しそうな笑い声がもれて、千尋は思わず忍人をのぞき込んだ。
「…忍人さん?」
忍人は顔を上げた。まだ唇に残る苦笑を指の関節で軽く隠して、優しい瞳が千尋を見る。
「…君には、…俺は一生かなわない」
「……は?」
千尋はぽかんと口を開けた。忍人がまたこらえきれなかった様子で苦笑をもらす。
「ほめているんだ。…そんなにきょとんとしないでくれ」
といわれても、と千尋がまごまごしていると、また彼がゆっくりと言葉をつづり始めた。
「ありがとう。…俺は少しだけわかった気がする。…俺が何を焦っていたのか。俺が本当
に考えねばならないのは何なのか」
…目の前にいる少女には決して言えないことだが。
忍人は、自分に残された時間がもうあまり多くないことに気づき始めていた。
だから、いつもずっと、これから先の戦いのことばかりを思い悩んでいた。どう戦うか。
いかに兵力を上げるか。…自分に残された時間でどこまで橿原宮に迫れるかと。千尋に陣
形の講義をし始めたのもそのためだ。せめて自分の持つ戦いの知識だけでも、彼女に伝え
られればと。
自分に出来ることは戦うことだけ。…自分が彼女に残せるものは戦果と戦いの知識だけ。
戦いのために生きた自分を、忍人は後悔していない。自分に残されたものは全て、この戦
いの中で食らいつくされるつもりでいた。いや、そう願っていた。魂だけでなく、体も心
も、後に残されるであろう思いも、全て食らいつくされるように願っていた。
戦いのためだけに生きていれば、戦いが終わったあとにその存在が消えれば、あとには何
も残さないでいけると思っていた。
だが、ちがうのだ。戦いのことだけ考えていても、戦うことしかできなくても、…そこに
思いは残る。
彼女のために戦うことが、…彼女の中に何かを残していく。
南音とは、そういうことなのだ。音楽でなくても、戦うという行為でさえ。その行為に、
誰かのためにという強い思いがあるなら、誰かの中に思いは残るのだ。
刻まれた思いは、消えない。
……ならば。
君を愛おしく思うことを、俺は自分に許してもいいだろうか。君の中に自分を残していく
べきではないと、ずっと律していた思いを、…少しだけ、大切にしてもいいだろうか。
「…忍人さん?」
黙りこくって考え込む忍人を案じて、千尋がそっと声をかける。忍人はゆるりと彼女の目
を見て、笑った。
「いや、何でもない。…ただ、君は本当に破格の人だと思って」
その言葉に、千尋が少し眉を寄せた。
「…どうかしたか?」
「忍人さんのその言葉、時々ほめられてる気がしないんですけど」
「そうか?俺としては最大級の賛辞のつもりだが」
そうですか、と言いながら、千尋はあまり納得していない。忍人はまた笑った。…それを
見て、千尋もようやく微笑む。
「…そんなほめ言葉より、もう一度琴を弾いてもらえる方がうれしいです」
忍人は首をすくめる。
「…下手でも?」
「忍人さんが私のために弾いてくれるなら、たとえ下手でも。…でも忍人さん、本当に上
手ですよ?とても優しい曲だったもの。…気持ちが温かくなった」
忍人はぽつん、ぽつん、と琴をつま弾いてみた。
「…ああ、そうかもしれない」
こぼれ出た音にうなずいて。
「君を思って弾くなら、…暖かい曲になるだろう。春の花のような、夏の野原のような」
あるいは秋の果実、冬の日だまり。心からいくらでもあふれだす。
ゆるりと忍人の手が動いた。
こぼれだした音を、千尋は目を閉じて聞く。やっぱり、優しくて柔らかい暖かい音。
忍人が思う自分だと思うと、気恥ずかしい気もする。…けれどやっぱりうれしくて。
千尋は琴の優しい音に身を任せるように身体の力を抜いた。
さっきよりももっと、優しい曲に聞こえると、…唇に微笑みをこぼしながら。