夏の終わり

コンクールのソロ決勝の後、一日だけオケ部の練習が全休日になった。ソロに出ない人間
はセミファイナルの敗戦後自由練習だったはずなので、まあそんなものだろうと思ったが、
大地はひたすらに俺を気の毒がる。
「たった一日じゃ帰省も出来ないじゃないか」
俺は鉛筆を走らせながら首をすくめた。
「どのみち、夏に帰省するつもりはなかった。移動だけで乗り継ぎや時刻表の関係でほぼ
まる一日かかるんだ。往復で二日つぶれてしまって練習できない」
「……律…」
大地が額を押さえる。
「お前の基準は全てがヴァイオリンなんだな」
そして、俺の白いノートを眺めながら今度はため息をついた。
「宿題が出来ていないのも、ヴァイオリンのせいか?」
耳が痛いことを言われて、俺はもう一度首をすくめる。
コンクールの練習を優先させたと言えば聞こえはいいが、どちらかというとコンクールの
練習に熱中してしまった、というほうが正しい。
「一応、夜間は寮では練習できないから、勉強の時間に充てていたんだが」
だから、音楽科の専門授業の宿題は終わっている。数学と読書感想文も仕上げた。…読書
感想文は、音楽家の自伝を選んだので進みが早かった。
「そうか、他の教科はほとんど出来てるのか。…英語だけが真っ白なんだな」
…それは、英文を眺めるより楽譜を見ている方が楽しいからだ。英文に比べれば、数式の
方がまだましなくらいだ。
「…わからないなあ。語学ほど、学んで楽しい学問もないと思うけど」
大地は嘆息して、壁の本棚に目を向けた。
ここは大地の自室だ。クーラーのない寮の部屋よりも、こっちのほうが勉強がはかどるだ
ろうと誘われた。確かに、窓を閉めれば蝉の声も遠く、室温は快適だ。
大地の部屋は同い年の男子としてはきっちり片付いている方だと思う。客を呼ぶから急い
で片付けたというわけではなく、基本的に整理好きなのだと思う。文庫は作家順に並べら
れているし、参考書は教科ごとにまとまっている。そしてその一角を占めるのが、語学講
座のテキストだった。
聞けば、テレビの語学講座を見るのがご両親の趣味なのだという。必然的に大地も子供の
頃から外国語に接してきて、今は主にドイツ語とイタリア語、スペイン語の学習中だそう
だ。……つまり、英語はもういいや、ということらしい。
そういう素養のある大地なら確かに、語学は学んで楽しい、かもしれないが。
「…」
返す言葉がなくて、無言でひたすら単語を書き続ける。英語の一つめの宿題は、語彙を増
やすということで、テキストに出てきた形容詞を意味と共にただただノートに書き写すと
いうものだ。こういう機械的な勉強ならばさほど苦にはならない。
宿題は七月中に全て終えたと豪語する大地が、肘をついて、俺の作業を眺めている。
「律は耳がいいんだから、その気になったら絶対語学は得意だと思うよ」
「耳で文法を理解するわけじゃないだろう」
「あ、やっぱり文法って言った」
だと思ったよと大地は言う。語学が嫌いな人間はたいてい文法を持ち出すのだ、と。
「そりゃ確かに、文法なんてどうでもいいとは言わないさ。特に俺たちは高校生だからね。
勉強する英語はどうしたって文法が中心になる。…でもさ。文法なんか気にしないで、テ
キストも見ないで、一度音だけ聞くといい。特に語学講座の出演者は基本的に発音が綺麗
だ。音楽のような抑揚で話してくれる」
…音楽。
「イタリア語やドイツ語を聞いていると、聞き覚えのある単語が出てくる。記憶を探ると、
アリアの歌詞に結びついたりする。…見知らぬ場所で友人に出会えたような気がして楽し
いよ」
…なるほど。
……それは、…少し、興味がある。
俺の表情を読み取ったらしい大地が、にやりと笑った。
「ほら。…ちょっと楽しいかもって思えてきただろう?」
「ああ」
隠すことでもない。俺は素直にうなずいた。
「大地は人をのせるのが上手いな」
「…ほめ言葉だと思っていいのかな」
「もちろん」
「…ありがとう。素直に受け取っておくよ」
彼は少しおもはゆそうに笑って、ふと、口元に指の関節を当てた。考え事をするときの大
地の癖だ。一瞬、何かがきらりと光る。窓を見ると、レースのカーテンがクーラーの風で
少し揺れて、日の光が少し入ってきていた。その光を指輪が反射したのかもしれない。
視線に気付いたのか、大地が、
「どうかしたかい、律」
と、声をかけてきた。
「いや、…家でも指輪をしてるんだなと思って」
「…ああ、これ?」
少し困った顔になった。何かと思ったら、
「うっかり手が日に焼けて、外すと指輪のところだけ白く日焼けしてないんだよ。恥ずか
しくってさ」
ぶつぶつと不平をもらすので、思わず笑ってしまう。
「…何」
「本末転倒だ」
「何が」
「外さないから日焼けのあとになったんだろう?」
ぐっとつまって。
「…確かに」
大地は素直に認め、頭をかいた。
「…俺の指輪、そんなに目立つかな。よく聞かれるんだ。どうして指輪をしてるのかって」
「…」
女の子のひそひそ声が耳によみがえる。
常にない衝動がこみ上げてきて、そんなつもりはなかったのに、思わず俺は口走ってしま
っていた。
「恋人募集中なのかと聞かれなかったか?」
その瞬間の大地の驚きっぷりといったらなかった。
瞬間冷凍されて凍り付いた顔にくっきりと、「何故律がそれを」とゴシック体大文字で書
いてある。かすかな嫉妬など吹き飛んでしまうような、それはもう見事に開けっぴろげで
圧巻の驚きようだったのだ。
たまらず俺が吹き出すと、その笑い声で硬直がとけ、ゆるくなったゼリーのようにほにゃ
ほにゃした声で、
「律ー…」
大地は呻いた。
「オケ部の女の子達がそう噂していた」
「あああ……」
返答はどうやらうなずきではなく、うめき声らしかった。
あまりに衝撃を受けているようなので、なくした恋の思い出とまで言われていたことは秘
密にしておこう。
「そんなんじゃないんだけどなあ…」
「じゃあ何だ」
何気なくいれた合いの手に、大地がふと俺を見た。少し大人びた、余裕のある顔でふわり
と笑う。
「珍しいね、律。…興味ある?」
どきりとした。
確かに、大地の指輪には興味がある。だが、そのことを根掘り葉掘り聞く勇気はなかった
し、そんな風に思っていることを大地に気付かれたくなかった。それなのに、さりげない
相づち一つで全て見透かされてしまったのだろうか。
「…立ち入ったことを聞くつもりはない。ただの相づちだ。…気にさわったのなら、すま
なかった」
「謝ることはないよ、別に気に障ったりしない。…元々、律には聞いてほしいと思ってい
た」
右手の甲を俺に向け、指輪を示して大地は優しい目をする。
「ひいじいさんの形見なんだ」
「…ひいおじいさん?」
「そう。…昔、宝探しをしていた俺に、音楽の妖精が見える指輪だと言って、くれたんだ」
俺は、まじまじと大地を見た。大地は深い眼差しでじっと俺を見返している。
「…律は、笑うかい?」
静かな声は、俺のどんな答えも受け入れる覚悟があるという風だった。
「…見たのか?」
俺の問いに、大地はゆっくりと首を横に振った。
「残念ながら見たことはない。ひいじいさんも見たことがないと言ってた。でも、俺は本
物だと信じてる。…今はね」
大地は俺から少し目をそらした。
「嫌味なことを言うようだけど、俺は昔からわりと何でも出来る方だった。…勉強でもス
ポーツでもね。ただ、そこそこは出来ても一流にはなれないなとも感じていた。……さめ
た、嫌な子供だったよ、我ながら。……だからこの指輪のことも、本当に小さい時は信じ
ていたけど、いつからか馬鹿にして忘れてた」
視線がそこで戻ってくる。
「でも、星奏を受験した日に律に会って、何か、…何と言えばいいのかな、自分の中にあ
った何か、…ここから先には進めないっていう壁とか限界みたいなものが取り払われて、
雲を抜けた上に青空が広がっているのを見たときのような、解放された気持ちになった。
叶いそうな夢だけじゃなく、途方もない夢でも信じていいんだと思えた」
話しながら少しずつ、大地の瞳に請うような熱がこもっていく。昂ぶる熱を押さえるかの
ように彼は目を伏せた。
「その気持ちを忘れないために、俺はこの指輪をつけている。これをつけていればいつか
音楽の妖精に会えるかもしれないと信じられる、…どんな夢でも信じ続けられる自分であ
るための、お守りなんだ」
…律、いつか言おうと思っていた。
ためらいがちに、ささやくような声。
「お前に会えて、よかった」
伏せた瞳がふっと開いた瞬間、押し寄せる波のように、大地の感情が伝わってきた。必死
で受け止める俺の中で、彼の思いは綺麗な音楽になって、あふれる泉のように俺を満たし
ていく。低く柔らかい響きとゆったりしたテンポ、それでいて、草原を吹きすぎる風のよ
うに開放的な旋律。
俺は改めて、大地の指輪を見た。噂話を聞いてから、見るたびいつも俺を重く苦しい気持
ちにしたその指輪は、今は軽やかに光り輝いて見える。…まるで、彼を守るように。
…そうだ。俺の指輪が音楽の妖精の祝福というなら、大地の指輪もきっとそうだ。彼の音
はいつだって心地よかった。初めてのヴィオラを弾いたときでさえ、つたなさよりも耳な
じみの良さを感じたほど。
「…余計な話が長くなったな。…宿題をさっさと片付けてしまおう。終わったら一曲合わ
せようか。そのつもりでヴァイオリンを持ってきたんだろう?」
見抜かれて、俺は苦笑しながらうなずいた。弾む心を抑えながら、また英語の教科書に目
を落とす。心の中にあふれる音楽を、形にしたい衝動と必死に戦いながら。
窓の外からかすかにひぐらしの声が聞こえる。…俺たちの初めての夏が、終わろうとして
いた。