夏の終わり

機嫌が悪そうな那岐が忍人の部屋にものも言わずに入ってきてどすんと寝台に腰掛けた。
忍人は眉をひそめたが、とりあえずそのうち那岐自身が何か言うだろうと、涼しい顔のま
ま手元の竹簡を繰り続ける。
案の定、沈黙に耐えられなくなったのは那岐で、
「ああ、もう、腹が立つ…!」
いかにも腹に据えかねるという声でうなる。
忍人は顔を上げ、小さく首をかしげる。那岐は少し唇をとがらせて、ぼそぼそと話し始め
た。
「…別に同意を求めてなんかいない、…一人言のつもりだった。薬草園の整備をしていて
空を見上げたら、なんだかずいぶん空が高く思えて、夏って、いつ終わるんだろうって、
つい口にした。……そしたら、偶然布都彦が通りかかって、それを聞いたらしくて」
もうその時点で忍人は額を押さえた。布都彦も那岐も互いに悪気はないのだが、他方はよ
くいえば几帳面、悪く言えば四角四面、此方はよく言えばゆとりがあり、悪く言えばいい
加減なので、時々激しくすれ違う。
「先般立秋を終えたではないか、那岐、って、すっごい呆れた声で言うんだ!別にそうい
うことを言いたいんじゃないんだ、僕は!」
……そんなことだろうと思った。
「何が腹が立つって、そういうことが言いたいんじゃないって言い返しても、布都彦は四
角四面に暦の話を繰り返すばかりなのが目に見えてて、言い返す気になれないのが余計に
腹が立つ!」
もっと、と声を上げかけて、那岐は忍人の苦笑気味の表情に気付いたらしい。
「ごめん。…八つ当たりしに来て」
ぷすん、とどこか空気の抜けた声で那岐はつぶやき、そのまま体の力も抜けたという風情
でごろんと寝台に転がった。それをしおに忍人は竹簡を巻いて閉じ、席を立って、那岐の
隣にそっと腰掛ける。
それから天井を見て。…ゆっくり指を折りながら、数え始めた。
「…空が青く高くなって、昼の蝉の声より夜の蟋蟀の声の方が大きくなって、朝起きて外
に出ると風がひやりと冷たくて」
彼は一旦そこで言葉を切った。それから意味ありげにちらりと視線を那岐に投げて。
「夏の間は木陰で涼んでいた猫が、人肌を恋しがるようになったら、…夏が終わったなと
思う、かな」
黙って聞いていた那岐が、そこでむくりと起き上がった。ぐいと忍人に体を寄せ、下から
ねめつけるように彼を見て、彼のおとがいに手をかける。
「…そういう迂闊なこと言うと、……襲うよ」
「襲いに来たくせに」
笑みを含んだ忍人の言葉が空に消えるよりも先に、那岐は彼を押し倒した。鎖骨に額を押
し当て、押し殺したような声で、
「本気で襲うよ。いいの」
飢えているのにどこか臆病な子供のように念を押す。
「いい」
他方、襲われている方はずいぶんと余裕で、
「俺もそろそろ、…温もりが恋しい」
などと言う。
「どうせ年中群れでいるくせに。狼なんだから」
くつろげた胸に唇を押し当てながら、那岐はなおも拗ねる。
「群れとつがいはまた別だ」
「つがいとか言うな、やらしい」
「いやらしいことをするくせに」
もう黙って、と那岐は唇で彼の言葉を遮った。陶磁器のようにひやりと白い忍人の肌が、
ゆるりと熱を帯びてほのかに染まり始める。
秋がゆるゆると夏を追い立てはじめている。
余裕のない息づかいも、かみしめてもこぼれるかすれた声も、折から高くなった虫の声が
消していく。

夏の終わりの夜が、ゆっくりと更けていった。