夏闇

祭りの夜は更けつつある。
授所に座り、お守りやお札を求める参拝客をてきぱきとさばいて大地が一息ついたとき、
目の前にまた一人、誰かが立った。
「ようこそお参りくださいました」
反射的に言ってから、相手を見上げてそれが誰かに気付き、大地は少し嫌そうな顔になる。
「…土岐」
「お祭りやから行こ行こってみんなに誘われてん」
土岐はけろりとした返事だ。
「おみくじひかせて?」
「…どうぞ」
筒はそこに、と促すと、蓬生はさして真剣そうでもない顔で、がらがらと筒を振った。
「十七番」
「十七番?……おやおや」
何年も祭りの手伝いをしていると、みくじの番号と吉凶の組み合わせがだいたい頭に入っ
てくる。…確か、と思いながらみくじ棚から十七番を引っ張り出すと、やはりそれは。
「あら。凶やった」
ひらひらと蓬生はみくじを振ってみせた。
「結んで帰るといいよ」
「別に凶は気にせんけど、まあでも、お勧めに従おかな」
ほな、とひらひら手を振って、蓬生は人混みに姿を消す。次の参拝客が目の前に立ったの
で、大地はその姿を目で追うことは出来なかった。
しばらくして、お疲れ様です、少し交替しましょう、という声に送られて、大地は授所を
出た。皓々と明るかった室内に比べて、鬱蒼と木が茂って夜店もない授所の裏はいかにも
暗い。目が慣れなくて、幾度も瞬いていると、
「交替?」
暗がりから声をかけられて飛び上がりそうになった。
「土岐……!」
声に多少の怒気を込めると、蓬生はくつくつとうれしそうに笑う。
「幽霊かと思た?」
「幽霊がいるとは思わなかったけど、土岐がいるとも思わなかったよ」
むっつり言っても蓬生が気にした様子はない。
「まだみんな夜店で遊んどうけど、俺は人混みが苦手やから」
のんびりと言って、大地の姿を上から下までじろじろ見てから笑む。
「よう似合とう」
ぽん、と胸のあたりを叩いて珍しくほめたのだが、
「せやけどちょっと着崩れてきとんちゃう?」
…やっぱりけなした。
ちょっとごめんな、とつぶやいて大地の背後に回った蓬生は、袴の隙間から手を差し入れ
て着物の背縫いの腰の辺りをきゅっと引き、衿を正す。
「座り方下手くそやろ」
「君と違って洋風に生活してるんでね」
拗ねたような声に、背後で蓬生がまた笑う。
「せやろな。貴重なもん見たわ。榊くんの着物姿やなんて」
…すっ、と熱が近づく気配にどきりとする。後ろから伸びてきた左手がそっと大地の頬に
触れ、添えるようにして、顔を右の肩越しに背中の方へと振り返らせる。大地が振り向か
されたすぐ傍に蓬生の鼻梁があって、…彼はそっとささやいた。
「…な。…ここでキスして?」
「………と………」
「着物姿があんまり色っぽいから興奮してん。……な?」
「……っ!」
人気がないとはいえ、すぐそこは授所の扉だ。開いて顔見知りの誰が出てくるかもわから
ない。明るい境内から、誰かが蓬生を探しにここへ来ないとも限らない。
…けれど、誘うように唇は薄く開いて、何より頬とうなじを愛撫するような蓬生の手に、
ゆるゆると熱があおられる。
「…土岐」
眉を寄せ、困惑した顔で、…それでも大地が蓬生に顔を近づけようとしたとき。
「はいそこまで」
ぱふ、と、顔を蓬生の右手が覆った。
「…っ!土岐!」
「榊くんが冗談を真に受けるとは思わんかった。いくら俺でもこんなとこでさかったりせ
んわ。不敬やんか」
不敬というなら、既に充分不敬な行為をしていたような気がするのだが。
「……」
大地が疲労感で肩を落とすと、蓬生は一層げらげらと笑った。
「フリスビーを全然ちがうところに投げられて困ってる大型犬みたいや」
その表現が大地に追い打ちをかける。へこんでいると、笑いすぎたか涙をふきながら、よ
しよしと土岐がその背を叩いた。
「からかいすぎやったな、ごめん。…埋め合わせするから、許して?」
「…いらないよ」
むっつりとした大地の声に、そない拗ねないな、とまた笑って。
「…何時に終わるん?」
…そっと聞いた。
「車回してくるわ。人のおらんとこに行きたい。…夜の海でも見にいこ。…つきおうて?」
ふわり近づき、こそりと耳打ち。
「そこでやったら、寸止めなんかせえへんから。…ちゃんとキスしよ」
「…土岐」
「…何時?」
「………十時、くらい」
「わかった。…一筋離れたところに車停めとくから、さがして。……ええ子にして、後で
な?」
唇に、約束のようにそっと人差し指で触れ、蓬生は何もなかったような顔をしてすっと境
内の方に戻っていった。
本気だろうか。…捜してもいいのだろうか。
迷いはある。…だが自分は捜すだろう。彼の姿を。自分を呼ぶひそかな声を。
あやめもわかぬ夜の闇の中に。