願い事一つだけ 誕生日前夜祭と称してはしゃく幼なじみと弟に引っ張り回されて、気付けばもう深夜だ。 律はため息をつきながら、アパートの階段を上がる。が、ドアを開けようと鍵穴に鍵をつ っこんで、ふと違和感を覚えた。 鍵が回った方向がいつもとちがう。ノブを回すと回らない。…今、自分は鍵を閉めたのだ。 …ドアが、開いてた? 朝、自分は確かに鍵を閉めて出たはずだ。まさか、と思いつつも、背筋がすっと寒くなる。 用心しながら恐る恐るドアを開けると、中から光がもれた。 「…っ」 緊張した身体は、しかし、次の瞬間に部屋の中からかけられた声で弛緩した。 「お帰り、律」 暖かい声。……ほっとする声。 1Kの間取りの奥の部屋で、大地はなにやら本にメモを書き込みつつ顔を上げた。そして、 律の顔をまじまじと見て、笑う。 「…なんだか、お化けでも見たような顔だなあ。…あ、そうか。空き巣だと思った?」 「…いや」 その通りなのだが、さすがに、正直に「はいそうです」とは言いかねて、律が少し困惑し ていると、驚かしてごめんと大地は頭をかいた。 「……今日は、実習で忙しいんじゃなかったのか」 かなでからそう聞いていた。だから、今日の前夜祭に大地は来られないのだと。 「なんとか終わらせたよ。死ぬ気で頑張った。…で、合鍵ももらってることだし、律の顔 でも見ようかなと」 答えて、大地は逆に律の表情をうかがう様子を見せた。 「前夜祭、どうだった?その様子だと、ずいぶん引っ張り回されたみたいだね。…疲れ切 ってる」 「ああ、へとへとだ」 「…人の家で俺が言うのも何だけど、お茶飲むかい?」 言いながら、もう大地は立ち上がっている。玄関に立っている自分の方がキッチンには近 いのだが、今夜は少し、甘えてしまおうかと思う。 「…頼む」 律の言葉に大地はうれしそうに目を細めた。 「熱いの、冷たいの?」 「熱いコーヒー。…インスタントが戸棚にある」 「ミルクと砂糖は?」 「牛乳だけ」 「了解」 キッチンに入ってくる大地と、奥の部屋に向かう律がすれちがう。…ふわりと大地の髪か ら消毒薬の匂いがした。…くすん、と鼻を鳴らし、畳の上に座り込んで、律は腹から吐き 出すような長いため息をついた。 「…本当に疲れてるなあ」 大地がくすくすと笑う。 「小日向が、もっとしてほしいことはないかとしつこくて」 「ははは」 「…笑い事じゃない。…あれはどうだ、これはどうだと。……どちらかといえば、俺はど こかでじっとしていたかった」 「ひなちゃん、俺にも言ってたよ。律の学生最後の誕生日になるから、何でも好きなこと、 何か記念になることって思うのに、肝心の律が何も望んでくれないって」 「……何もないんだ」 キッチンから戻って、コーヒーの入ったマグカップを差し出しながら、大地は探るような 声で問うた。 「…本当に?」 その声の色にどきりとする。…気付かれたくなくて、カップに口をつけることでなんとか ごまかした。 「…本当に、何もない?」 静かな声で大地は食い下がった。 「……」 無言で頷きながら、律は動揺する胸をそっと押さえた。 −……その声は、反則だ。深くて、よく響いて、そのくせ、甘い。…するりと心に入り込 んで、鍵を開けてしまいそうな声。 耳を塞ぐことも出来ず、マグカップのコーヒーを飲み干すことに専念する振りで、律は少 しうつむいた。 −…欲しいものは、ない。……ただ、願いなら、ある。 −……いつか、二人が遠く離れても、誕生日のこの日だけは今夜のようにそばにいてほし い。毎年、この日だけは何があっても会いに来るよと誓ってほしい。 けれど、それは叶わぬ望みだと律は知っている。大地が念願を叶えて医者になれば私事な ど吹き飛んでしまうほど忙しくなるのだとわかっている。…だからこそ願うのだが、だか らこそ願えないことでもあった。 大地に負担を強いたくない。…だからこの願いは、決して口には出さない。 「……」 律の答えを待つように、大地は静かに口を閉ざしている。顔が上げられなくて、沈黙に耐 えられなくて、…律の方から口を開いた。 「…そう、だな。…敢えて言うなら、久しぶりにコンサートを聴きに行きたいと思ってい たが、大地に明日の演奏会のチケットをもらっていたから。…もう、叶ってる」 当たり障りのない答えに、大地は小さくため息をついたようだ。…だが、すぐにからりと した声を出した。 「…律の誕生日だからちょうどいいかと思っただけで、海のものとも山のものともつかな い演奏会だけどね」 首をすくめる。 「だから本当は、俺も他に何かプレゼントしたかったんだよ」 「わざわざ今夜ここに来てくれた。…それで十分だ」 「…そうか」 ようやく律は顔を上げた。目の前で大地は、どこかあきらめの混じる笑顔で少しうつむき、 …また顔を上げた。 「……?」 その笑顔が、何かを含んでいる。 「じゃあ、…がんばって会いに来たご褒美をもらおうかな」 「…ごほうび?」 「そう」 大地の含みが何かわからない。律はおずおずと首をかしげた。 「…何、を」 「……誕生日の、一番最初のキスがほしい」 ねだる笑顔の色っぽさに、ずくん、と律の腹のあたりがうずいた。 「……一番最初も何も、……俺にそんなものほしがるのは、大地しかいないだろう」 「…あれ。…俺がほしがるのは認めてくれるんだ」 「……?」 ふ、と大地が笑う、それはたぶん苦笑い。 「…以前の律なら、何を言い出すんだ大地、って、真っ赤になるところだろう。…大人に なったなあ」 上からな物言いに、律は少しむっとして、唇をとがらせる。 「…年下のくせに」 言われて、大地も唇をとがらせた。 「…半年だけだろ」 互いに拗ねた視線を交わして、…おかしくなって、ぷっと吹き出して。 「……キスしていい?」 「…念押しして聞くな、…頼むから」 恥ずかしい、と言う前に、ついばむように口づけられた。ちゅ、と音をして離れてしまう 心細さに、追いかけるように腕をつかめば、わかっているよと再びキス。…ついばんで離 れることはなく、絡み合い、深くなる。 −……今だけでいいんだ。……今だけで十分だ。 自分に繰り返し言い聞かせながら、律は優しいキスに溺れた。