願い星

よく、夢を見る。

ほとんどの夢はこまぎれの印象だけが強くて、全体はおよそ曖昧だ。顔ははっきりとは見
えないが、見知らぬ少女に兄と呼ばれる夢。訪れた記憶のない不思議な家で、おかしな料
理を作り、皆と食卓を囲む夢。岩長姫の屋敷で学んでいるときの夢や、もっと幼い、両親
と葛城の郷で暮らしていたときの夢も、みな断片的で、目覚めたときにうっすらとそんな
夢だったかなと思う程度なのだが。
ただ一つだけ、最初から最後までがひどくはっきりしている夢がある。そしてなぜかその
夢だけは、くりかえし忍人の眠りの中に訪れる。

夢の中で、自分は光あふれるまばゆい空間に立っている。自分の目の前にも誰か立ってい
るようだ。しかし光がまぶしすぎて相手の顔はおろか、目の前に確かにいるのかどうかす
ら判別がつかない。ただ、いるとしたらおそらくは二人。男と女だ。なぜならば、しばら
くして聞こえてくる声が一つではなく、二つ重なって聞こえるからだ。
「お前の願いは、何だ」
抑揚のない声。特徴が感じられない。けれど、声の高さは違う。男の声と女の声。
声はともかく、前にもどこかで聞かれたことがある気がする問いだ、と忍人は思う。その
ときは確か、はっきりと望みを口にすることが出来たはずなのに、何故だろうか、今は頭
の芯がぼうっとしているようで何も考えられない。
「俺の、…願い?」
オウム返しにつぶやくと、相手はやはり抑揚のない声で言葉を重ねた。
「お前の願いを言え」
……。
願い。
忍人は考え込む。しかし、考えれば考えるほど、頭の中は真っ白になっていく。大切なこ
とが、繰り返し祈った願いが何か一つ、確かにあったはずなのにどうしてもそれが思い出
せない。自分でも自分に焦れて唇をかむ。…あんなに大切だったことが、どうして思い出
せないのか、と。
目の前にいる誰かが落胆する気配に顔を上げる。
憐れむような侮蔑するような視線を忍人に向けながら、彼らはぼそぼそとつぶやき合って
いる。その言葉は低くかすかで、断片的にしか聞き取れない。
「…………が狂わされた影響か」
「これでは、……が成り立たぬ」
「…結べぬか」
そこで二人は忍人が聞き耳を立てていることに気付き、まっすぐ向き直って言い放つ。
「思い出せ、お前の願いを」
「我らに願え。…そして、……を」
………何を?
忍人がぼんやりとそう思ったとき。
…………っ!
目の前で光が爆発するような気配を感じて。
……そしていつも、……そこで目が覚める。

「……!」
がばりと忍人は身を起こした。
うっすらと汗をかいている。服の袖で乱暴にそれをぬぐってから、額に手を当て、体の底
から吐き出すようなため息をついた。
…またあの夢だ。わけがわからないのに繰り返し見る夢。
以前はもっと他の夢の間に紛れていたように思うのに、最近はずいぶんと頻繁になってき
ている。
「………」
もう一度ため息をついて、忍人はゆっくりと起き上がった。
まだ夜が明けたばかりだろうに、既に船内でかすかなざわめきが聞こえる。
今日とうとう、出雲の祭りが行われるのだ。


…これは予想外の展開だわ。
甘酒(こちらでは一夜酒と呼ばれるらしい)をちびちびとなめながら、千尋は自分の傍ら
をそっと見上げた。黒ずくめの青年は、白い貌に気難しい表情を浮かべてむっつりと前方
を凝視している。先刻よりも蒸し暑くなった気がするのは、人が増えたせいだろうか。な
めている甘酒に酔ったのか。…それとも、忍人といることで自分が緊張しているせいだろ
うか?
元々千尋は、一時解散の声がかかったとき、風早と共に行動しようと思っていた。しかし
声をかけようとした彼女が見たのは、ずるずると恩師に引きずられていく風早の姿だった。
にやにや笑いながら柊がその傍らについて歩いていくのを見た段階で、千尋はくるりと彼
らに背を向けた。君子危うきに近寄らずと言うではないか。うっかり関わったら飛んで火
に入る夏の虫だ。……千尋の脳内を、やたらと故事成句がかけめぐる。
次善の策として、千尋はやむなく那岐を捜した。那岐がこういう騒ぎを好まないのは予想
がついたが、あれで意外と面倒見がいい性格だ。頼めば一緒に行動してくれるだろうと思
ったのだ。
…が、風早に声をかけようとおたおたしているうちに、那岐はさっさと雲隠れしてしまっ
たらしい。辺りをざっと見回しても、影も形もない。
これは村の外に出たと判断して、門を出てみたら、そこに忍人の隊がいた。村の外を見張
りがてら時間をつぶしているのだという。
……そのとき、なんというか千尋は、……魔が差した、のだと思う。
一緒に祭りを見ないかという千尋の申し出に、まず忍人は物好きだと苦笑し、ついで千尋
が一人でいることに気付いて叱責とお説教を始めた。……が、意外なことに、いかにもし
ぶしぶながら、彼は千尋と行動を共にすることを了承したのだった。
あんまり意外だったから、驚いて、嬉しくて、舞い上がって、むやみやたらとはしゃいで
しまった。風早や那岐なら見透かして、そんなに慌てなくてもいいと言ってくれるところ
だが、額面通りに受け取るのがいかにも忍人らしくて、それもまた、舞い上がってふわふ
わする千尋の気持ちを助長する。……今、甘酒の器を手に、ようやく我に返った千尋であ
る。
せっかく二人きりで祭りを見ているのだ。…少しでも忍人にあちらでのことを思い出して
ほしい。何か思い出してもらうきっかけになることがないだろうか。
考え込んでいたら、ふと、忍人の方から声をかけてきた。
「…味はどうだ」
「あ、おいしいです」
何気なく答えてから、ふと思いつく。
「…私がいた世界では、これ、甘酒って呼ばれていたんです」
そう言って様子をうかがったが、忍人はそうかとも言わず、黙って聞いている。
……まあ、こんなこと言った程度で何か思い出してもらえたら、それこそびっくりだけど。
ため息を気付かれないように飲み込んで、千尋は話し続けた。
「普通、冬にあたたかいのを飲むものだったから、冷たいってなんだか不思議だけど、で
もおいしい…。……?」
話している途中で忍人が千尋をのぞき込んできて、慌てる。
「…え、な、…何ですか?」
白い手がすっと伸びて、千尋の口元をぬぐっていった。
「……!?」
ぬぐった指をぺろりとなめて、忍人はあくまで真顔だ。
「口の端に甘づらがついていた。…まるで子供だな、君は」
「……!!」
顔から火が出た気がした。頭のてっぺんまで熱い。
「……す、…すみません」
忍人は自分がしたことの意味にあまり気付いていないのか、冷静な顔で辺りをぐるりと見
回した。
「いや、…君の言うとおり、見て回るだけの価値はあるようだ。先ほどより人が増えてい
て盛況になっている。夜が更ければもっと人が集まってくるのだろうな」
食べ汚しのことをさらりと流してくれたことに安堵しながら、千尋は忍人の話題に乗っか
った。
「そういえば、このお祭りは、真夜中に一番にぎわうみたいですね」
「ああ、その頃ちょうど、中天に星が来るからな」
空を振り仰ぐ忍人を見上げて、千尋は首をかしげた。
「星?」
忍人がはたと千尋を見下ろす。目を丸くして、なんだか呆れ顔だ。
「君は……もしかして、この祭りの趣旨を知らないのか?」
…あれ?……趣旨って、…だって。
「シャニが言ってたとおり、出雲の神様を祭るお祭り…じゃないんですか?」
千尋の返答に、忍人は肩をすくめた。
「本当に知らないのか」
それでよく楽しめるものだ、と、…この言葉は口の中でひとりごちて。
「君の言うとおり、元は豊作を祝い神に祈る夏の祭りなのだろうが、この時期に行われる
ならおそらくもう一つ別の意味がある」
言いながら彼は空を振り仰いだ。千尋もつられて空を見る。
あちらの世界にいた頃は、見ようと思ってもなかなか見えなかった天の川が、こちらでは
こんなに皓々と火が焚かれていてもはっきりと見える。
「この時期、あの星の帯を挟んで明るい星がいくつかあるが、その内の二つは男星と女星
で、普段は会うことを禁じられている。だがこの日だけは会うことを許されると」
千尋はぱちぱちとまばたいた。
……って、それって。
「このお祭りって、七夕だったんですか?」
思わず声を高くした千尋に、そんな名ではなかった気がするが、と忍人は応じた。その、
いかにも初めて聞く言葉だと言いたげなそぶりに、千尋の胸がちくりと痛む。
……思い出してくれない。……この人は本当に、あの世界のことも、あの疑似家族のこと
も、忘れてしまっているのだ。
けれど、毎年の大騒ぎを思い出すと、……その輪の中に確かにいた人が、まったくそれを
思い出してくれないことが、否、覚えていないことが、痛い。
「…私がいた世界にもよく似たお祭りがあったんです。…七夕っていって」
胸の内の感情を必死で押し殺しながら、千尋は微笑んでみせる。
「……風早が、大家さんのうちから笹をもらってきて、みんなで飾ったっけ」
音頭を取って飾り付けるのは風早だ。笹飾りをたくさんたくさん作るのは千尋。文句をぶ
うぶう言いながら、それでも、無器用な千尋が網飾りをうまく作れないでいると、貸して、
と器用な指先でどんどん細工を完成させてくれる那岐。忍人は黙々とこよりを作り続け、
出来た短冊や飾りに目打ちで穴を開けては、こよりを通す。
風早が笹をもらってくるたび、今年もやるの?と呆れた那岐の声も、無言で半紙を取りに
行く忍人の足音も、まだはっきり自分の中に残っているのに。
あの日々はもう遠く。
「……」
千尋は忍人をまっすぐに見た。
……この人は、…もう覚えていない。
千尋の視線を、相づちを促されているからと受け取ったのか、忍人は口を開いた。
「笹に飾りを?」
「…願い事を書いた短冊を笹につるすんです。そうすると願いが叶うんですよ」
「…笹につるすくらいで願いが叶うとはとうてい思えないが」
いかにも現実的な言い方に千尋は笑った。あの世界では、忍人ではなく那岐がよくそう言
っていたっけ。那岐がそういう言い方をしても、忍人は黙ってこよりをよっていたものだ
ったが、彼も内心はそう思っていたのだろうか。
「忍人さんは、あんまりそういうの、好きじゃありませんか?」
千尋は泣き出しそうになるのをごまかすために、空をまた振り仰ぐ。
「こんなに星がきれいだと、叶いそうじゃありませんか」
隣で彼も空を見上げた気配がする。千尋は敢えてそちらを見ない。
「さあ……俺にはよくわからんが」
喧噪の中、間をおいて。
「君のいた世界では、叶うのかもしれないな」
千尋の唇が震えた。
……私がいた世界、と、先に名付けたのは千尋だ。だから、「君のいた世界」という忍人
の言葉に傷つくのはずるい、と思う。
……思いはするけれど、……せつない。
口を開いたら泣いてしまいそうだ。
千尋が唇を噛みしめてこらえ、うつむいていると、その姿を見て何を思ったのか、忍人は
少し背をかがめて千尋をのぞき込み、こう言った。
「気分でも悪くなったか?出される食べ物を次々受け取るからだ」
「ちがいます!」
思わず声が出た。出た拍子にぽろりと涙が一粒こぼれたけれど、どさくさまぎれに袖でぬ
ぐって、千尋はきゃんきゃん叫んだ。
「そんなんじゃありません!!もう、デリカシーないんだから!」
忍人は首をすくめる。デリカシーという、本来この世界から出たことのない彼なら意味が
取れないはずの言葉も、さらりと流す。聞き取れなかったのか、…意味が伝わったのか。
意味が伝わっているのだと思いたい自分が、少しいじましい。
「今だったら何をお願いするかなって考えていたんです。……忍人さんなら、願いごと、
何にしますか?」
何気なく問うと、忍人ははっと顔をこわばらせた。
「………俺の、……願い?」


・・・お前の願いは 何だ


「……っ」
「…忍人さん?」
顔をのぞき込んで、千尋ははっとする。
「大丈夫ですか?…顔色真っ青ですよ?」
「……ああ、……いや、問題ない。少し人混みにあてられたようだ」
「…私が無理に連れ回したからですね。…ごめんなさい」
「君のせいじゃない、気にしないでくれ。…ああ、あそこに夕霧がいる。このあたりは危
険もあるまい。……俺は失礼させてもらう」
「……はい」
すまなそうに軽く千尋に視線を流してから、忍人は狗奴の軍が展開しているはずの村の門
に向かって歩いていった。もとより闇のようないでたちの彼は、夜闇にすぐまぎれてしま
う。千尋は目を凝らしてその姿が門に消えるまで見送った。
この喧噪の中、視界から彼がいなくなることが、ひどく不安に思えた。
……それは、あのフリーマーケットで彼を失った日を、思い出すから。
今度は、忍人は消えるわけじゃない。門の外にちゃんといるはず。
……そう思っても、不安は消えない。
千尋は天を振り仰いだ。
あの世界とは違い、天の川も、牽牛星も織女星もはっきりと見える。こんなに皓々と篝火
が焚かれていることを考えると、本当に不思議だ。
あの世界にいたときは、毎年七夕に願いをかけながら、かなうとはまったく思っていなか
った。
けれどこの世界では。……こんなに星が綺麗な場所なら。もしかしたらかなうかもしれな
い。いや、かなってほしい。
「……こんなに星がきれいなんだもの」
ぽつりとつぶやき、千尋は星を見つめたまま、静かに手を合わせた。
「……忍人さんの記憶が、戻りますように」


小さな小さなその声を。
ささやかで、けれど真摯なその願いを。
……星は、聞くや聞かざるや。