眠れない夜

重い石の戸を押し開くと、枯れ葉の匂いがする冬の風が吹き付けてきた。
夜更けの堅庭は灯りがなく、見通しがきかない。障害物などないとわかっているのだが、
なんとなく不安で、そろりと一歩を踏み出す。…そのとたん、
「…誰だ?」
暗闇から誰何されて、千尋は飛び上がりそうになった。
「…姫?」
四阿の方から人が歩いてくる気配がする。コツコツと鋭く律動的な足音で相手が誰かはす
ぐわかった。
「…忍人さん?…どうしたんですか、こんな時間に」
千尋の目の前に立って、忍人は首をすくめた。
「寝る前に、船内をぐるっと見回りするようにしているんだ。俺がする必要もないことか
もしれないが、これをしないと落ち着かない。…君は」
返す刀で問い返されて、千尋も忍人と同じように首をすくめる。
「…ええと」
忍人と違うのは、即答しかねるところだ。
「…なんだか寝付けなくて、…散歩してみているところです」
忍人は眉を少しひそめた。
「…眠れない?」
千尋は曖昧に笑って、そっと胸を押さえた。
…この現実的な人に、どう説明したものか。
「明日香に入ってからずっと、胸がざわざわするような感覚がとれないんです。…寝よう
とすると特に」
何かが起こるわけではない。夢に見るわけでもない。ただ胸がざわざわする。それだけ。
「寝なくちゃ、とは思ってて、…羊の数を数えてみたりしたんですけど」
「……羊?」
忍人は、今度はごく不思議そうに首をひねった。その表情が彼には珍しく少し子供っぽく
て千尋はふわりと笑う。
そうか。中つ国には羊はいないのかもしれない。毛織物を見かけない。
「私がいた世界にいた、群れで飼う動物です。その数を数えると眠れるって言われている
んです」
忍人は腕を組む。やや考え込む風なのは、どのような動物なのか、見たこともない羊を想
像しているのかもしれない。中つ国にどういう生き物が生息しているのかはっきり知らな
い千尋には、似ている動物の例をあげられない。
…山羊はいるのかしら。
こっそり考え込む千尋に、ようやく忍人が口を開いた。
「要するに、まじないのようなものか。効くのか?」
聞いてから、ふと彼は笑った。
「……と、聞くまでもないな。効くなら、今君はここにいない」
筋道だった物言いが忍人らしくて、千尋はまた笑ってしまった。忍人はしかし、かすかな
微笑みを消して少し厳しい顔になり、
「将としては、休める時間にはきっちり休むべきだ」
峻厳な口調でそう言った。千尋は思わず首をすくめて顔を伏せる。
…言われると思った。
が、そこから延々お小言が始まるにちがいない、という千尋の予想はあっさり裏切られる。
「…と言いたいが」
やや間をあけて忍人がそう言い、こほん、と小さく咳払いをしたのだ。
「…君の気持ちもわかる。…胸がざわざわする、というのはわからないが、俺にも眠れな
い夜はある」
「…忍人さんにも?」
千尋は少しぽかんとして思わず聞いた。
「どんな時ですか?」
しかし忍人はその問いには少し眉をひそめて何も言わず、代わりに、
「眠りのことなら那岐に相談したらどうだ。彼は睡眠の専門家だろう」
揶揄するような表情を浮かべてそんなことを言う。
はぐらかされた、と千尋は思った。
が、忍人の少し苦しげな表情を見ると、そのことを問い詰める気にはなれなかった。きっ
と彼が眠れない夜は、彼にとって辛いことがあった夜だろう。自分の身にではなく、自分
の周りの者の身に何かがあった夜。…そういう人だ。
だから千尋も、少し笑って、忍人がはぐらかした話にのった。
「那岐には聞いても無駄。だって、何もしなくても眠れるって言うんだもの」
冬ならふかふかのお布団。夏なら涼しい風の吹く場所。心地いい場所さえあれば眠れない
はずがないって。
千尋の返答を聞いて、忍人も苦笑を浮かべた。
「なるほど。…頼りにならないな」
「忍人さんなら、眠れないとき何をしますか?」
何気なく聞いてから、千尋はまずかったかな、とちょっと思った。眠れない夜のことを尋
ねたときの、忍人の少し苦しそうな顔を思い出したのだ。
だが忍人はそうだな、と腕を組んだ。問うことを許してくれるようだ。
「冬なら、…まず、手足を温めるかな。冷えていると眠れないものだ」
…わあ。意外と現実的。
吹き出したいのをこらえて、千尋はそれから?と聞いた。まず、というからには続きがあ
るはずだ。
促された忍人は、しかし、少し照れたような顔をした。
「…あとは、…狗奴の兵と一緒に寝る、かな」
千尋は目をぱちくりと見開いた。思いがけない返事だったが、しかし。
…確かに。
「ふさふさしてて、あったかそうですよね」
子犬や子猫を抱っこして寝たら温かいだろう。それと同じ感覚だろうか。…しかし、狗奴
の兵はどう見ても子犬サイズではないし(足往ならまだ子犬と言って許されるサイズかも
しれないが)、動物を抱っこして寝ている忍人というのも想像しがたい。
千尋はきっと珍妙な顔をしたのだろう。忍人は苦笑しいしい、念を押した。
「密着して寝るわけじゃない。ふさふさは関係ないんだ」
「…え」
「匂いだ」
「…匂い?」
「そう。…子供の頃から、割と狗奴の一族とは親しかったからかな。彼らの毛の匂いをか
ぐと安心するんだ。安心すると、すんなり眠れる」
忍人は労るように優しい目で千尋を見た。
「きっと、君にも好きな匂いがあるはずだ。その匂いのする場所で眠れば、意外とすんな
り眠れるかもしれない」
「…好きな匂い」
私の好きな匂いって何かしら、と千尋が考えたとき、脳裏によみがえったのはあの異世界
の橿原の家だった。古い貸家特有の、いろんな人が何年にもわたって住んでいた匂い。お
味噌汁の匂いがしみついたような台所。ぽかぽか日が当たって、夜でも日向の匂いがする
千尋の自室の壁。
温かくて優しい、家族の匂い。
ぐっと胸に何かがせり上がりそうになって、千尋はこらえた。懐かしさが涙を連れてきた。
けれど、忍人の前で、あの家を思い出して泣きたくはなかった。中つ国の姫として、よう
やく自分を認めてくれつつある人に、ここでない場所が恋しいと言ってはならない気がし
た。
けれど、すぐには微笑めない。あたりさわりのない答えも用意できない。困ってしまって
千尋がうつむいていると、そっと肩が温かくなった。
「……」
…忍人の手が、労るように千尋の肩に置かれていた。
顔を上げられない千尋をせかしはせず、ゆるゆると彼は口を開く。
「…好きな匂いといっても、すぐに用意できるとは限らない。花ならば季節にならねば咲
かないし、…場所に由来するものなら、そこに行かねばならないし」
静かに付け加えられた一言に、忍人が千尋の内心の葛藤に気付いたことを知る。気付いて、
しかし言わずにこらえた千尋の気持ちを慮って、はっきりとは何も言わないのだと。
何も言わずにただ肩に載せてくれた手の暖かさが、うれしかった。
「が、手足を温めることはすぐに出来る。…温石を用意しよう。船内に入るといい。外に
いればそれだけ冷える」
肩から手が去っていく。彼の手がなくなった肩は、それまでと同じ温度のはずなのに、ひ
どく冷えた気がした。もう少し、とすがるように顔を上げた千尋を、忍人の微笑みが迎え
てくれた。
そっと、手が差し出される。
「俺の手も、ずっと堅庭にいたからそう温かいわけではないが、少しは君の手を温められ
るかもしれない」
そう言って、彼は千尋の手を取った。
ずっと外に出ていたはずの彼の手は、思いがけず、ほんのりと温かかった。いや、千尋の
手が冷たいのだろう。現に忍人は、
「…確かに君の手は冷たいな」
驚いた声でひとりごちている。
「俺の手でも、どうやら少しは間に合いそうだ」
手をつないだまま、行こう、と彼は歩き出した。千尋を気遣って、常よりは少しゆっくり
と歩いてくれる。
つないだ手から、じんわりと温もりが伝わってくる。
暖まっているのはせいぜい指先と掌くらいのはずなのに、なぜだか胸がぽかぽかしてくる。
睡眠を妨げていた胸のざわつきが、ゆっくりと収まっていく。とろりとした眠気がやって
くる。
この人の傍にいる。手をつないでいる。ただそれだけで、自分はこれほどに安心できる。
この温もりがずっと傍にあれば、きっと、眠れない夜など来ないのに。
口にする勇気のない願いはそっと飲み込んで、千尋はまっすぐに歩き続けた。