眠れる谷

小さい頃、よく命を狙われた。よくあることなので、気をつけるようにはしていたが、一
度姉に盛られた毒に気付かなかったことがあり、そのときは本当に危なかった。
が、その危機の中でも一つだけいいことがあった。毒を消し身体を癒す手助けにと連れて
こられた土蜘蛛は大人ではなく子供で、…俺にとって、初めての友達といえる相手になっ
たから。

遠夜は、常世の言葉を話さなかった。いや、声すら出さなかった。だが、子供同士が仲良
くなるのに、言葉は特段必要なかった。二人で草原をころころ走り回るだけで、俺たちは
十分楽しかった。
いつものように原っぱを走り回ったある日のこと。
遠夜がふと思いついたように、俺を手招いた。
「何だ?」
俺がとことこと寄っていくと、いかにも大事な秘密を教えると言いたげに、ひどくもった
いぶって遠夜は、俺の先に立って歩き始めた。
いつも走り回る原っぱを出て、林に入る。小さな谷川を飛び越し、山道を少し登るとその
道は切り通しになり、崖で行き止まりになった。
戸惑う俺に、遠夜はいかにもここからが本番だと言いたげに、道の脇の崖にあいている小
さな洞窟を指さした。俺たちくらいの子供なら、這っていけば通れるだろうが、大人には
通るのが難しそうな穴だ。自信満々の遠夜に促されるようにして、俺も穴に入った。
穴はだんだん下り坂になっている。結構下ったぞ、と思ったところで、光が見えた。光は
どんどん大きくなって、やがて俺たちはぽかりと出口に出た。
「…うわ…!」
そこは一面の花盛りだった。白い美しい花が一面に咲き乱れている。
今ほどではないが、その頃既に常世の国は豊穣から遠ざかり始めていた。満開の花畑など、
めったと見られるものではない。
俺は浮かれた。
珍しいものを見つけた遠夜が、自分に見せてくれるために連れてきてくれたのだと思った。
現に遠夜は、にこにこしながら俺を見ている。
「つれてきてくれてありがとう、遠夜!」
礼を言うと、ゆるゆると遠夜は首を横に振り、花畑にしゃがみ込み、
「…!?」
おもむろに、ぶちぶちと花を引きちぎり始めた。
「…遠夜…!?」
白い花びらが風に散る。遠夜は気にした様子もなく、無心に花をちぎっている。ちぎられ
た花が、無造作に彼の腰の袋に詰め込まれていく。
ひらひらととびかう花びらは、まるで雪のようで。
遠夜の指の乱暴さが、…俺の心までもむしるようだった。
「…やめろ、遠夜!」
思わず遠夜の手を掴んだ。
「…?」
きょとんとして、遠夜は俺を見上げる。俺がなぜ止めるのかわからないと言いたげだ。
それがなおのこと、俺をいらだたせた。
「なぜ、せっかく咲いているものを無理矢理踏みにじるようなことをする!やめるんだ!」
やせた大地に、花は必死に開いたのに。なぜそうもむごいことが出来るのか。
けれど、俺がかんしゃくを起こす勢いでわめいても、遠夜にはさっぱり通じていない。相
変わらずぽかんとした顔で俺を見るだけだ。
通じないことがもどかしくて悔しくて、地団駄を踏みたかったがうかつに踏むと自分も花
を散らしてしまう。
「…帰る!」
結局俺は、そう宣言してくるりと後ろを向き、元来た穴に飛び込んだ。背後で遠夜が何か
叫んだようだったが、元より彼の言葉は俺には聞き取れないのだった。

それから数週間を、俺たちは少し気まずいまま過ごしたが、体調が元に戻ったと判断され
た俺は宮に戻り、遠夜は土蜘蛛の里に戻されることになった。
別れの日、おずおずと遠夜が差し出してきた小袋は甘い花の香りがした。
眠りを助けてくれるまじないの袋ですねと、横から下働きの娘が言葉を添えてくれたこと
だけ、今もひどくはっきり覚えている。

「…幼かったな、我ながら」
窓枠に頬杖をついて、アシュヴィンがぽつりと言った。
「…なにか、おっしゃいましたか、殿下?」
くぐもった声での一人言は、リブには聞き取れなかったのだろう。聞き返されて、アシュ
ヴィンは、いやなんでも、と首を横に振った。
遠夜が見せてくれた白い花が薬になること、また、盛りの時に摘んだ花びらを干して乾か
したものは、安眠に効くということを、後からアシュヴィンは知った。
その頃アシュヴィンは眠りの浅い子供だった。何度も殺されかけた経験が、彼をぐっすり
と眠らせない子供にしていた。遠夜はそれを知っていたから、その花を摘みに来たのだろ
う。アシュヴィンのために。それをとがめられ、なじられて、さぞ彼は困惑しただろう。
今だからそれがわかるが、そのときのアシュヴィンには、遠夜が何故、せっかく見せてく
れた花を無惨にちぎって回るのかが理解できなかったのだ。そして、二人は互いの思いを
伝える術を持たなかった。アシュヴィンは伝える根気を持たず、遠夜は伝える声を持たな
かった。
あの小袋はどこへ行ったろう。どこか気まずい思い出の品は、捨てずに自室のどこかに押
し込んでおいたはずだが。…今もどこかにあるだろうか。
リブは、主のぼんやりとした顔に穏やかな笑みを向けていたが、ふと、
「そう言えば、殿下」
と声をかけた。
何だ、とアシュヴィンが顔を向けたとき、ほとほととアシュヴィンの部屋の戸が叩かれ、
アシュヴィン、と柔らかい少女の声が彼の名を呼んだ。
…二ノ姫だ。
アシュヴィンとリブは目を見合わせ、アシュヴィンがかすかにあごをしゃくると、かすか
に微笑みながらリブが戸口に立っていった。
開いた扉の向こうに立つ少女は、小さな花束を抱えて微笑んでいた。リブに促されるまま
室内に入ってきた彼女は、その花束をアシュヴィンに差し出して、
「お誕生日おめでとう、アシュヴィン」
…彼女自身が花のように、華やかに微笑んだ。
「……!」
や、先を越されました、と、リブが小さくつぶやく。彼が言いかけた言葉もどうやら主へ
の言祝ぎだったらしい。
花束は一輪一輪違う花だった。小さな野の花があるかと思えば、先に一輪だけ黄色いつぼ
みをつけた枝、すらりと伸びた茎の先に白い杯のような花をつけたものなど、様々だ。
みんなで捜したの、と千尋は笑う。
「まだ春には少し早いから、あまり大きな花束に出来なくてごめんなさい」
「…いや、ありがとう」
礼を言いながら受け取り、しかし、とアシュヴィンは少し首をひねった。
「なぜ花なんだ?…いや、贈り物に花が悪いというわけではないが、この花の少ない時期
に無理して捜してまで」
これが春の盛りだというなら、贈り物が花でも疑問は持たなかった。だが、今はまだ春に
は早すぎる。花を捜すのはさぞかし苦労しただろう。
問われた千尋は朗らかに答えた。
「だって、アシュヴィンは花が好きなんでしょう?」
「……?」
……いや、…まあ、千尋を笹百合の谷に案内したこともあるし、決して嫌いだとは言わな
いが、そんなに朗らかに断言されるほど好きなわけでは。
アシュヴィンの内心の声に気付かぬ千尋は、自分の言葉を補強するためにこう付け加えた。
「アシュヴィンの誕生日は遠夜が教えてくれたの。そのときに、アシュヴィンの贈り物何
がいいかなって話になって。変わった発明品なら大喜びしそうだけど、そんなもの急には
作れないし。悩んでいたら、遠夜が、アシュヴィンは花が好きだって。……とっても好き
だって」
「……!」
ぽかん、と開きそうになる口をアシュヴィンは慌てて閉じた。虚を突かれた感覚が通り過
ぎると、胸に笑いがこみ上げてくる。
ああ、…ああそうか、…あの思い出は、彼の中にそういう印象を残しているのだ。俺のか
んしゃくに驚く気持ちよりも、俺が花を愛しんだ記憶として彼の中に残っているのだ。
アシュヴィンは決して花が好きだったわけではない。ただ、あの頃常世を覆い始めていた
不作の波に環境の変化を肌で感じて、花が、いや生き物が損なわれることを本能から恐れ
ただけだったのに。
吹き出したいような気持ちを、必死でこらえる。
千尋は言葉を続けていた。
「だから、みんなで花を捜したの。とりあえず、一人一輪は絶対ね、って。……ええと」
アシュヴィンの様子が少しおかしいことに彼女も気付く。少し上目遣いになった。
「…あんまり、…気に入らなかった…?」
アシュヴィンは慌てて笑いを飲み込んだ。…少なくとも、飲み込もうと努力した。
「…いや」
声に笑いが混じるのは許してくれ。頬がゆるむのも許してくれ。おかしさだけじゃなくて
うれしさも混じっているから。
「いや、なんというか、…思いがけなくて。…だが」
こらえた。大笑いは飲み込む。その代わり、にやりと頬にいつもの笑みを浮かべて。
「…ありがとう」
素直にそう言葉が出た。
…千尋がまた、花が開くように笑った。

姿を捜すまでもなく、遠夜はいつもの回廊で廊下の壁にもたれていた。声が出るようにな
った彼は、アシュヴィンを見つけてうれしそうに笑い、
「…贈り物、気に入った?」
と聞いてきた。
「ああ」
同じ壁にアシュヴィンはもたれる。遠夜が自分を見ているのはわかったが、あえて彼を見
ずにまっすぐ回廊の向こう側の壁を見る。
「…お前は、このまま、常世の土蜘蛛の里へは戻らないんだろう?」
遠夜は、アシュヴィンの唐突な問いかけに少し首をかしげたが、おっとり笑って、うん、
とつぶやいた。
「…なら」
アシュヴィンは少し言い淀んだが、思い切って続ける。
「…あの谷に花が咲いたら知らせるから、…そのときは常世に来て、もう一度眠りのまじ
ないの袋を作ってくれ」
遠夜ははっとアシュヴィンに顔を向ける。アシュヴィンは敢えて前を向いたまま、表情を
動かさない。
「俺は、寝付きが悪いんだ」
ぼそりとそう付け足すと、遠夜がかすかに笑う気配がした。
「…本当は、枕の方が効き目があるけど」
困ったような声を出すので、思わずアシュヴィンは遠夜を見た。遠夜は、アシュヴィンよ
りもほんの少し(本当にほんの少しだが)背が高いくせに、背を丸めて上目遣いでアシュ
ヴィンを見ている。
「…たくさん摘むのは、…アシュヴィンは厭?」
おずおずとした顔は、…彼があのときのことを忘れていない証拠で、…けれど、もう気に
していないよと伝えたくもあって、あえて自分からその話を持ち出したのだろう。
アシュヴィンは目をすがめるようにして笑った。
「…いや。…必要ならそうしてくれ。…だが出来れば、もっと優しく摘んでやれ」
「うん」
遠夜は花のように笑った。
「花がかわいそうだから、ね?」
アシュヴィンは、照れくささを顔を背けることでごまかした。遠夜はくすくすと笑ってい
る。サザキが、なんだお前ら仲良しだなあ、と、大きな声で笑いながら通り過ぎていった。