熱帯魚はひらひらと笑う

「すまない、土岐。…餌をやりたいんだが」
食堂の水槽にひたりと寄り添って熱帯魚を見ていた土岐の背中に、静かな声がかかった。
「…ああ、ごめん。…どうぞ」
振り返り、律の姿を確認した土岐は、ふらりと身をかわす。軽くうなずいて水槽に近づい
た律は、小さな缶から餌を静かに落とす。慌てるわけでもなく魚たちがひらひらと水面に
近づいてきて、餌を拾っていく。
まじまじとその様子を見ていた土岐が、ぽつりとつぶやいた。
「…そうか。…ここの魚、あんたが世話してるんや」
「ああ」
律が静かに答えると、
「道理で、みんななんとなく鈍そうやな」
土岐は妙な批評をした。
「…は?」
彼は腕を組んで食堂の壁にもたれ、じっと律を見ている。かすか見上げるその瞳の位置に、
ああ、大地と同じくらいの身長だなと、どうでもいいことを律は思う。
「ペットは飼い主に似るって言うやろ。…あんた、ずいぶん鈍そうやもん。あんなややこ
しい男が四六時中傍におって平気やなんて、信じられへんわ」
「…」
律は少し眼鏡を押し上げた。
「ややこしい、というのは大地のことか?」
「…」
土岐は無言で笑っている。
「東金のような癖の強い男の傍にいられる君が、それを言うのか」
「あれ、言われてしもた」
土岐は首をすくめたが、別にこたえた様子はない。その程度の反論は予想のうち、という
ことなのだろう。
「俺は、千秋の考えることわかってて一緒におるんよ。ややこしいのんも味のうちや。せ
やけど、あんたはどうなん?…さほど榊くんのこと、理解しているようにも見えんけど」
…というよりむしろ、この男が他人の内面を推理することなどあるのだろうかと、土岐は
思う。何を言っても言われても額面通りに投げるし受け取る。深く考察するのは楽曲に関
してだけではないかとさえ見えるのだが、しかし、律は土岐の指摘にしばし押し黙った。
むっとしているわけではない。言われたことを咀嚼し、省みるのに時間がかかっていると
いう風情だ。
「そうだな、確かに」
ややあって、律はきっぱりと肯定した。
「俺には大地は難解だ。あいつの中にはもっといやな部分も駄目なところもあるはずなの
に、俺に見せるのは誠実な強さと優しいいたわりばかりだ」
土岐の笑みが深くなった。どこか暗い色をしている。
「俺は、土岐の言うとおり鈍くて、人の心の機微には疎い。大地が優しさの裏で何かをた
め込んでいてもきっと気付けない。大地がそのことを不快に、疎ましく思うのならば、俺
は大地から離れるべきなんだろう。…だが、もし」
律は眼鏡を押さえながらうつむいた。その眼鏡と、さらりと額からこぼれた髪が、彼の表
情を隠す。
「だが、もし、そうでないなら。…大地が俺といることを疎んじないのなら、俺は大地と
共にいたい。大地といるときの自分が、俺は好きだ」
「…っ」
土岐は眼鏡の奥で目を見開いた。
「…相手が自分にとってわけのわからん男でも?実はあんたが気付いてへんだけで、めっ
ちゃめんどくさい男やったとしても?」
「…」
うつむいていた律が顔を上げた。
ひらりとその白い貌にひらめくものは、笑み。不思議な自信を内に秘めた、強い笑顔だ。
「…」
しばらくその笑顔を見つめてから、…土岐は、体全体を使って吐き出すような大きなため
息をもらして、
「全肯定するんや。……参ったなあ」
乱暴な仕草で腕を組み直す。
「…あんた、どんだけあいつが好きなん」
「人が人を好きになる気持ちというものは、測れるものなのか?」
律は大真面目な顔で問い返してきた。
「もしそうなら、土岐がどれくらい東金を好きなのか教えてくれ」
小さく笑って、付け加える。
「たぶん土岐と東金のそれよりも、俺が大地を好きな気持ちの方が多い」
「・・・・・。」
今日何度目かの絶句の後、
「…負けた。降参」
土岐は降伏のしるしに両手を挙げて、肩をすくめた。
それからちらりと、ひらひらと泳ぐ魚たちに目を向けて。
「…なあ。…もしかして、熱帯魚って意外としぶといん?」
律は指を一本あごに当ててから、目を伏せ、ふっと笑った。
「…ああ。…俺に似てな」