熱を孕む。


「律、少し休憩しないか」
声をかけると、はっと肩をふるわせてから息を吐いた。教科書から顔を上げた律は、首を
少し振ってこきりと音をたてる。
「…すまないな、大地。受験勉強が大変なのに、定期試験の勉強につきあわせて」
「遊びに誘ったわけじゃないんだから、気にするなよ。教えることもいい復習になるし、
律が問題を解いてる間は俺も自分の問題集をやってる。……っていうかむしろ、ありがた
いよ、俺にも。一人で黙々と勉強してるよりよっぽどはかどる」
「…そうなのか?」
律は首をかしげた。不思議そう…というよりは不審そうだ。たぶん彼が一番気まずいのは、
大地の机を使っているのが自分で、家主の大地はベッドに腰掛け、手に問題集を持って問
題を解いているという今の状況なのだろう。ちらちらと机とベッドを見比べる視線がなん
ともいたたまれなげで、大地はこっそり笑った。
「残念ながら、俺は一人でやってると集中力がきれるのが早くてね。問題集に飽きてすぐ
に雑誌を読みたくなったり、辞書を引いても目的の単語とは違う単語を見て、今調べなく
てもいいことを調べたくなったりするから」
「…大地でもそういうことがあるんだな」
律は目を細め、静かに笑った。
「…律は?」
「俺はしょっちゅう。…勉強しているときに限って曲想がわいて、弾いておきたくてしか
たがなくなったり、譜読みしたくなったり」
「嫌いな教科に限ってね」
「そう。…だから自室に楽譜を置いておくのは危険なんだ」
大地がぷっと吹き出すと、律も照れ笑いを返して、…ふと目をこすり、眼鏡を外した。曇
りが気になったのか、ポケットからクロスを出してゆっくりと拭き始める。
うつむく顔、少し伏せたまぶた、まつげの長さにどきっとして、見慣れた顔に何を今更と、
大地はゆるり、己を笑う。
「…?」
ようやく視線に気付いたらしい、律が顔を上げて大地を見た。
「…どうかしたか?」
「…いや」
何でもないよと言葉を続けようとして、大地はおやと思った。いつも大人びて冷静な律だ
が、そんな風に眼鏡を外して目を丸く見開いていると、ずいぶん印象が変わって見える。
…瞳のふちのところ、あんなに色が薄かったんだなと内心でひとりごちてから、誰かに似
ていると心づく。
………誰だっけ。
「大地?」
「…ごめん、ぼうっとしてた」
…と、答えたとたんに気付いた。
「何だ。響也だ」
うっかり声に出してつぶやいてしまって、律が怪訝な顔をする。
「響也がどうした」
「あ、いや」
一瞬のためらいの後、大地は言葉を続けた。
「律と響也ってあんまり似てない兄弟だなってずっと思ってたけど、律が眼鏡を外すと意
外と似てる。目の色とか」
子供っぽい顔をすると特に、とは、心の中だけで付け加える。
大地の言葉に、律はけろりと応じた。
「それはそうだ、兄弟なんだから」
「…確かに」
素直にうなずいた大地だったが、続く言葉に思わず目をむく。
「子供の頃は、よく双子に間違われた」
……は?
「…嘘だろう!」
「嘘じゃない」
律は苦笑している。
「俺たちは、二年弱の差があるとはいえ一応年子だし、響也は発育のいい子供だった。だ
から小学校に上がるまではよく、知らない人から『あら、双子ちゃんね、かわいい』と声
をかけられたものだ。…うちの母もいい加減な人だったから、ええそうなんですとか適当
なことを言って」
「……適当すぎないか……?」
「母の気持ちもわからなくはない。あんまり同じことを聞かれると、違いますというのが
面倒になるんだ。ええそうですと言っておけば、それ以上つっこまれない」
……なるほど。確かにそうかもしれない。
「…おもしろいなあ。今の響也と律を見て、双子と間違える人なんて絶対ないだろうと思
うけど」
大地が同意を求めたのに、律は何故か首を横に振った。
「そうでもない。…似ていると言われるのが嫌で、お互い意識してスタイルを変えた部分
もあるからな。…だから、ほら」
不意に律は、さらりとまとまった髪をわざと手ぐしでばさばさに乱した。
「眼鏡はどうしようもないが、髪型だけならこうすれば」
「…あ」
全く同じとはいわないが、前髪が乱れるだけでずいぶん印象が変わる。どうだと言わんば
かりに笑う顔もいつもとは違う。……なるほど、確かにこれは。
「…似てる」
得意げな律。…まるで響也だ。
………。
……いや。
「…律。わかったから、元に戻してくれ」
大地は顔を半分手で隠し、頼んだ。
「何だ、そんなにおかしいか?」
律は、大地が笑いすぎて顔を押さえているのだと思ったらしい。違うんだよと大地は首を
振った。
「…これから、響也を見てもどきどきしそうになるから、やめてくれ」
「…」
律は一度大きくまばたいた。
「…。俺と響也を間違える?」
「そうじゃない。間違えるとかじゃないんだ。…俺は基本的に、何を見ても律を連想して
しまうんだよ。何でも無意識に律と関連づけてる。……律が好きだから」
眼鏡のない律は、少し目をすがめた。…大地の表情を読もうとしているのだ。
「そのくせ、律のことを考えると、何というか、……どうしようもなくなる。どきどきし
たり、何も手につかなくなったり、いたたまれなくなったり」
…まあ、それは主によからぬことを妄想するせいだが。
「響也は律と印象が違うから、これまであいつを見ても律を思い出すなんてことなかった。
……けど」
…そんな風に、似ていることを意識させられてしまっては。…これから、ちょっとやばい。
「…」
律がふと、大地の顔をのぞき込んだ。
「…顔が赤い、大地」
律が近い。身をのけぞらせて避けようとしたが、律は大地の行動に気付かないのか、ある
いはわざとか、…回り込むように、のしかかるように、大地の瞳を正面から捕らえようと
する。眼鏡を外したままだから、近づかないと焦点が合わないのだろう。それはわかる。
わかるのだが。
「…律。……近い」
「俺が近いと、どうした?」
…お前絶対わざとだろう!…と叫びたかったが、彼がどうしようもなく鈍いのは、自分も
含めて衆目の認めるところだし、彼の目はあくまでもあくまでもごくごく真面目だ。
やむを得ず、大地は正直に告白した。
「…あんまり近づかれると、キスしたくなるからやめてくれ」
「別に。すればいい」
あのなと言い返しかけて、大地は気付いた。
……律の耳も赤い。言った後で、その言葉の意味するところに気付いたのだろうか。それ
とも言う前から?
…どちらにせよ、耳だけでなく目のふちまで少し赤く染めて、律は言った。
「……しよう」
蚊の鳴くような声でつぶやいて少し開いた歯列の奥に、赤い舌がのぞいて、大地は我を忘
れた。
逃げようとのけぞっていた態勢から身を起こし、律を捕らえ、唇を重ねて抱きしめる。急
な態勢の変化に律はかすかに揺らいだけれども、…逃げなかった。
長い抱擁になった。
手の中の温もりと唇に感じる甘さに我を忘れていた大地だったが、んん、と少し苦しそう
な呼吸が聞こえて、はっと我に返る。
「…っ」
慌てて呪縛のような口づけから律を解放すると、彼ははあっと息を吐き、ついで思い切り
息を吸い込んだ。整わない律の呼吸に己の衝動を恥じ、身を離そうとした大地だったが、
大地のセーターを指で握りしめた律がそれを許さない。そして額を胸にそっと当てて、ひ
そりとねだる。
「……俺だけ、見て、…」
呑み込んでしまって言わない言葉の続きを、大地は知っている。
……響也を、見ないで。
ささやかな嫉妬が、ひどく心地よかった。
「……律。……好きだよ」
抱きしめなおして囁くと、うん、と小さなうなずきが返る。
「好きだ。…すごく好き」
「…うん」
好き、と囁くたびに、抱きしめている身体の熱がじわじわと上がっていくようだ。触れて
いると大地は、自分の中からも何かがわき上がってくるように思えてきた。
…確かめたくて、聞いてみる。
「……律は?」
「…」
眼鏡のない瞳がまろく開いて、まじまじと大地を見て。
「…大地が好きだ」
大地はゆっくりと笑った。

……じわり。…君と同じ熱を、はらむ。