二月尽


夜が明ける頃堅庭へ出ると先客がいた。
「…那岐」
呼びかけると、稀代の鬼道使いは金の髪をさらりと揺らし、ゆっくりと柊を振り返った。
「…早いですね」
「……。寝付けなかったんだ」
ぽつりと述懐されて、柊は眉をひそめた。
「…休めるときに体は休めておいてください」
「わかってるよ。……でも」
口ごもり、うつむく。…那岐が寝付けなかった理由がなんとなく推し量られて、柊は苦い
ため息を押し殺し、目をそらした。
…昨晩、忍人はずいぶん具合が悪そうだった。平気だと強がってみせはするものの顔色は
悪く、眉はひそめられたままで開かれることがない。早くに自室に引き取ってしまったが、
通りかかりに扉に耳をそばだてると、上掛けをかぶって必死に押さえているようなくぐも
った咳の音が繰り返し聞こえた。
……いたたまれず、耳を塞いで書庫にこもった柊も、正直寝たような寝ていないような状
態だった。那岐のことをえらそうに言える義理ではない。
柊とは違い、はあ、とはっきりため息をついて、那岐は柊を見た。
「…ね。…ちょっと話をしていいかな」
柊は腕を組んで、眉を上げる。
「…どうぞ」
「…あんたは何でも知ってるから、もしかしたら聞いたことがあるかもしれないけど、…
…遠い異世界の異国には、運命は三人の女神が決めているという言い伝えがある」
そう前置きして、那岐は静かにこんな話を語り始めた。


ある日、巫女の託宣で、命尽きるまであと三月と宣告された男が、運命を変えてもらおう
と運命の女神達に会いに行った。
運命の女神は三人姉妹だ。一番上の姉が運命の糸を紡ぎ、二番目の姉が糸の長さを測り、
末の妹がはさみで糸を断ち切る。
男はまず末の妹に会いに行って、運命を変えてほしいと訴えた。…すると末の妹はこう言
った。
「私にはどうしてあげることも出来ないわ。だってあなたの運命の糸の長さを決めている
のは二番目の姉様だもの。…私はただ、姉様が決めたとおりの長さに切るだけなのよ」
男はなるほどと思い、今度は二番目の姉のところへ言って同じことを訴えた。すると二番
目の姉はこう言った。
「私にはどうしてあげることも出来ないわ。だってあなたの運命の糸を紡ぐことを決めた
のは一番上の姉様だもの。私は言われたとおりに測るだけよ」
首をかしげつつも、そういうものなのかと思って、男は最後に一番上の姉に会いに行った。
すると、ちょうどその瞬間にも、誰かの運命の糸を紡ぎながら、一番上の姉はこう言った
のだ。
「私にはどうしてあげることも出来ないわ。だって運命の糸を紡ぐことは、私に決められ
た運命ですもの」


柊は、そこでふっと鼻で笑いそうになった。語った那岐も苦笑いしている。
「…詰まるところ、運命っていうのは誰にも変えられない、…この小話はそう言いたいん
だろうけど、…本当にそうなのかな。運命は、誰にも変えられないのかな。……あんたは
どう思う?」
柊は腕組みしていた右手をほどき、あごにあてた。
「…なぜ、私に聞くんです?」
「だって、あんたは未来が見えるんだろう。…運命なんてどうとでも変えられる。…そう
思ったことはないの?」
「……。…もしそう思うようなことが、何か私の身に起こっていたら、……私はもう少し、
前向きな人間になっていたと思いますよ」
「……」
「……」
「……」
何とも言えない沈黙が続いて、……先に音を上げたのは柊だった。
「…何か言ってくれませんか、那岐」
「…返事しづらいことを、あんたが言うからだよ。……なんか、ものすごく納得しちゃっ
たじゃないか」
「ごもっともです」
苦々しげな顔の鬼道使いに、柊は優雅に一礼してみせた。
「…ですがね。こんな後ろ向きな私にも、運命に対して一つだけ言えることがあります」
那岐は半分身を背けて、顔だけを柊に向けた。
「…それは何?」
「……運命なんぞ、くそくらえ、ですよ」
「…」
その、常にない柊の強い語気に、那岐は一瞬呆気にとられ、…ついで目を細めてぷっと吹
き出した。
「…全くだね」
くすくすと笑う声に笑い返しながら、柊はそっと空を見上げた。
東の空は既に曙光がさして明るく、星の姿は見えないが、西の空にはまだちかちかと小さ
な光がまたたいている。星はもう、春の姿に変わっていた。じきに如月の晦、……柊の生
まれ日がやってくるだろう。
……自分は、同じ誕生日を、何度過ごしただろう。……そして、何度彼の死を見ただろう。
……もうとっくに、数えることを止めてしまった。
運命はまた、くるりと回るのだろうか。それとも今度こそ、前へと進むのだろうか。

…ぽかりと空いた眼窩がうずく。昇り始める朝日の強い光を避けるように、柊は晴れてい
る左目も静かに閉じた。