虹の彼方に

どこからかヴィオラの音が聞こえてくる。律はふと足を止めて耳をすました。自分が知っ
ている音ではないかと思ったからだ。
音に誘われるようにふらふらと歩いていくと、いつのまにか道はゆるやかな登りになって、
やがてぽっかりと開ける。
坂の上は、ちいさな児童公園になっていた。
ブランコと滑り台、鉄棒が並んでいるだけで、砂場すらないその公園に、背の高い青年が
すらりと立ってヴィオラを響かせている。
…大地だった。
声をかけようとして、律はふと曲に聴き入った。
聴いたことがある曲だが題名が思い出せない。クラシックではない。ジャズかポップスだ
ろうか。
考え込んでいると、観衆の気配に気付いた大地が弓をおろし、振り返って、えっと声を上
げた。
「…律!?」
ヴィオラを手に、大股に近づいてくる。
「いつのまに…。…見ていたんなら声をかけてくれればいいのに」
「…いや…」
律は曖昧に言葉を濁して、少し長くなった前髪をかきあげた。大地はそんな律を見てにこ
りと笑った。
「買い出しか?…あれ、でも、寮から街に出るにはこっちは少し道を外れているな。何か
他の用事?」
「…ああ…。…コンビニに行こうと思っていたんだが、ヴィオラの音が聞こえて、…大地
の音じゃないかと思ったから」
「……っ」
大地は少し息を呑んでまじまじと律を見、…額を手で押さえてため息を一つついた。
「…無自覚なんだもんなあ…」
つぶやきは小さくて、律の耳には届かなかった。大地のつぶやきが聞こえなかった律は、
まっすぐに彼を見て問いかける。
「…大地はここで何をしてるんだ?」
「見ての通り、練習。…あんまりいい天気だから外で弾こうと思ったんだけど、どこで弾
いてもご近所迷惑になりそうでね。たどりついたのがここだったってわけ」
「…そうか」
律はうなずく。…それから、やや逡巡しつつ、ところでと首をかしげた。
「今の曲は?」
「え?…ああ、別に学内選抜であの曲を弾くわけじゃないよ。弓ならしさ」
「…そうだろうな」
さらりと聴いただけだが今の曲は学内選抜向きではなさそうだったし、ここのところかな
でが気を入れて練習しているのはドヴォルザークの4つのロマンティックな小品だ。おそ
らくあの曲が、大地達が学内選抜用に用意している曲目なのだろう。
「聞きたいのはそのことじゃなくて、…その、…今のは何という曲だ?」
「は?」
大地は一瞬呆気にとられた顔をしてから、ふわりと苦笑した。
「Over the Rainbowだよ。オズの魔法使いさ。…知らないかな。メロディを耳にしたこと
くらいはあるんじゃないかと思うけど」
「……あ」
不意に、ヴィオラではなく少女の澄んだ歌声でさっきのメロディが耳によみがえった。古
い映画のどこかかさかさした雑音の中から伸び上がる優しい声。
「…虹の彼方のどこかに、…か」
思わずつぶやくと、ほら知ってるんじゃないか、と大地は笑った。
「ソプラノで歌うイメージだから、ヴィオラでやると印象が変わるかもしれないな。ドロ
シーの歌というよりかかしか木こりの歌声になってしまう」
「……かかし?」
思わず聞き返す。
「さては、オズの魔法使いがどんな話か知らないな?」
からかうような顔で大地に言われ、律はぐっとつまった。……全く知らないわけではない、
が。
「竜巻に飛ばされた女の子が、魔法使いに会いに行く話、…だろう?」
おおまかには合ってる、と、大地はヴィオラをかかえ直して苦笑した。
「竜巻でアメリカのカンサスからオズの国に飛ばされたドロシーは、家に帰してもらうた
めに魔法使いに会いに行く。…その途中で、同じように願いを叶えてもらうために魔法使
いに会いたがっている仲間たちと出会うんだ。…知恵がほしいかかし、血の通った心がほ
しいブリキの木こり、勇気がほしい臆病なライオン」
……ああ、それでかかしと木こりかと、律はようやく納得した。
「……俺も一つ聞いていいかな、律」
「…?」
気がつくと、大地がまっすぐに律を見ていた。
「お前だったら何がほしい?」
眼差しはひどく真剣だった。…不意に胸の奥がじわりと熱くなる。
「…何…?」
「お前なら、魔法使いに何を願う?」
「…」
律は即答できなかった。
ほしいもの、は、たぶんある。
だがそれはひどくあいまいでもやもやとしていて、言葉にも形にもならない。
ただ、こうして大地の傍にいるとき、彼と話し、彼の目を見るとき、いつもこそりと胸の
隅に顔を出す。
ところが、意識してその何かをつかまえようとすると、それは臆病なウサギのようにすぐ
にふっと隠れてしまうのだ。
律は頭を一つ振って、心の中のもやもやとは全く違うことを口にした。
「銀のトロフィーはほしいが、…魔法使いに頼んで得るものではないしな」
「…」
律の答えに、大地は意表を突かれた顔をした。
すぐにいつも通り朗らかに笑って、律らしいな、と言ったけれど、目が伏せられた瞬間、
かすかな失望がそこに宿った気がして、律は思わず目を凝らした。…だが、穏やかに律を
見て笑っている大地の表情には、一瞬のかげりはもうどこにもない。
律の胸がきりりときしんだ。
ごまかすために、さりげない風を装って問い返す。
「大地は何がほしいんだ?」
「俺もトロフィー、と言いたいところだけど」
悪戯っぽくウィンク一つ寄越してから、大地は少し遠い目をした。
「…魔法使いに頼むのなら、勇気、かな」
…勇気?
律は少し首をひねる。意外だった。
それは既に彼が持っているものではないだろうか。
律が知る大地は、臆病とは無縁のように思えるのだが。
律の内心のつぶやきを知るよしもない大地は、彼に聞かせるというよりは自分に確かめる
ようにゆるゆると話し始めた。
「ほしいものは変わっていくものなんだって、最近よく思う。…子供の頃はずっと、かか
しのように知恵がほしかった」
…それはわかる気がする。もちろん大地は勉学優秀だったが、…ただ。
「うちの親は勉強しろ勉強しろってうるさくいうタイプではなかったけど、それでも俺は
一人息子だし、できれば後を継いでほしいと思っていることはなんとなく伝わってきてい
た。…俺も薄々そのつもりだったしね」
大地の父親は開業医だ。…その後を継ごうと思う大地が、今以上に知恵を欲するというの
は、ごく自然な希望のように思える。……勇気よりはよほど。
「頭は良ければそれにこしたことはない、もしもらうんなら知恵だな、ずっとそう思って
た。……でも今は、…」
言いかけた何かを、大地はのみこんでしまったようだった。深く噛みしめるように響いて
いた声は、不意にさばさばとおおらかな、いつもの大地の声になる。
「もっとも、オズの魔法使いの話にはちゃんとオチがある。なんでもかなえてくれるはず
の大魔法使いオズは、実はちんけなペテン師で、かかしの知恵も、木こりのハートも、ラ
イオンの勇気も、ちゃんと既に彼らは持っていた。魔法使いは結局何もしてはくれない、
てなわけで」
大地はヴィオラをかまえなおし、弓を当て、…律に目配せして笑う。
「俺たちもきりきり練習あるのみだ。…そうだろう?律」
「……ああ、…そうだな」
…銀のトロフィーは、魔法使いに願うものではない。練習を重ね、音を深めて頂点を目指
すことで得るものだ。……だが。
律はそっと胸を押さえた。
この身のうちでもやもやと形にならないもどかしい欲望。
…これを言葉にするには、いったい何を手に入れればいいのだろう。…知恵だろうか。そ
れとも勇気?……それとも?
…律はゆるゆると首を振った。…そして、楽譜の準備をしている大地にそっと声をかける。
「…大地」
「ん?」
「…もう一度、さっきの曲を聴かせてくれないか」
大地は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに破顔し、やや芝居がかった動作で礼をして
みせた。
「…お望みとあらば」
そしてゆるゆると、ヴィオラが深く響き始める。


にじのかなたのどこかとおく こもりうたできいたくにがある

にじのかなたのそらはあおく しんじたゆめはみんなかなう