人形の夢と目覚め


夏休み中でも、星奏学院のチャイムはいつも通り律儀に授業の開始と終了の時を告げる。
大地に言わせると、土日を除く平日には自動的に鳴る設定で、消せないのだそうだ。昼寝
するには少々耳障りだが、練習の区切りにはちょうどいい合図で、蓬生が大地の練習を見
るときも、自然とチャイムをきっかけに切り上げるようになった。
午後は、六限が終わる三時過ぎのチャイムが合図だ。もう八月も終わりとはいえ、まだま
だ日は長いから、その後も練習できる時間はあるが、残った時間を大地はその日蓬生に指
摘されたことを復習し、蓬生は蓬生で遊び相手を探しにいったり寮に戻って休んだりする。
…ほんの数日で、自然とそんなペースが出来上がっていた。
その日も、いつもの三時過ぎにチャイムが鳴った。数秒遅れて、大地が練習していた曲を
弾ききる。蓬生はちらりと時計を見て時間を確認し、背もたれに腕を置いて反対向きに座
っていたピアノの椅子から立ち上がった。
いつもならそこで最後の指摘をし、そのまま部屋を出て行くのだが、その日は指摘の後、
それとな、と蓬生は付け加えた。
「明日やねんけど」
ただそれだけで、大地は蓬生が何を言おうとしているのか悟ったらしく、ああ、という顔
になった。
「ソロの決勝だろう」
「わかりがようて助かるわ。…晴れ舞台を見たいし、祝勝会もあるし、朝から晩まで会場
にはりつくと思う。せやから悪いけど、明日の練習はなしにさせてな」
「もちろん、そのつもりだったよ。……東金によろしく伝えてくれ」
穏やかな声でエールを送ってから、ところで、と大地は首をかしげた。
「明日の練習のかわりってわけじゃないけど、今日の晩はあいてるかい?」
「誰。……俺?」
千秋の予定を自分に聞くわけはないと思いつつも、念のために確認すると、もちろん、と
いう顔で大地はうなずいた。
……いったい、何だ。
「…別に。何もないけど」
とりあえず正直に答えると、大地は穏やかな表情を崩さず、よかった、と少し笑う。
「ファイナルまでの日程の半分を切ったし、これまで辛抱強く練習につきあってもらった
お礼に、晩飯でもおごりたいんだけどな。…どう?」
蓬生は、二度まばたいた。
「普通、そういうんは、最終日にまとめてお礼でええような気がするけど」
ちらりと何かが心に引っかかったが、…それが何か、はっきりとは形にならない。警戒し
すぎるのも変な話だ。
…だから、蓬生はあっさりとうなずいた。
「まあでも、おごってくれる、いうもんはお言葉に甘えとこ。…地元民の口コミ情報期待
してるから、おいしいとこつれてってや、榊くん?」


大地が案内したのは、中華街の外れの方にある小さな料理屋だった。しゃれた店というわ
けではなく、むしろ店全体にじわっと油がまわっているようなたたずまいだったが、中華
料理は往々にしてそういう店の方が味がいいと蓬生は思う。…そして期待通り、どれを食
べても味は絶品だった。
食事を堪能して店を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。とりとめもないことを話
しながらも結構調子よく食べていたつもりだったが、それでもそれなりに時間はたつもの
で、時計はもう九時前を指している。
「ごちそうさま。うまかった」
その言葉はまんざら世辞でもないと、蓬生の表情を見て悟ったのだろう。大地はほっとし
たような笑みを返した。
「満足してもらえてよかった。…正直、神戸が地元の君を中華に案内するのはどうかなっ
て気にしてたんだ。でも、ファーストフード以外の外食って、中華くらいしか経験がなく
てさ」
「中華街の大通りにあるようなこじゃれた店やないんが気に入ったわ。てっきり君のこと
やからそういうセレクトかと」
「店の中がちょっと油まわってるくらいの方が、中華はうまいんだよ」
自分がさっき店の中で思っていたのと同じことを大地が言い返してきたので、蓬生は思わ
ず笑ってしまった。
「…何だい」
「いや、確かに。言えてる」
明るい電飾に彩られた街並みを抜けると、急に闇が濃さを増した気がした。街灯はあるが、
光量の急激な変化に目がついていかない。しかも、その頼りの街灯はけっこうまばらで、
途切れる場所では傍らの大地の顔すら見えなかった。
あいまいにしか道を知らない自分だ。見失っては厄介なことになると、大地の姿に必死に
目をこらしていると、じわじわと闇に目が慣れてきた。…おぼろだった大地の表情が少し
ずつはっきり見えてくる。
見えてきて気付いた。…大地の口元がゆるやかに笑っている。
「…?」
…何だ?
まじまじと凝視していると、視線を感じたのか、まっすぐ前を見て歩いていた大地が蓬生
を顧みた。
「…まだ三時間くらい早いけど」
本当はまだ言うつもりじゃなかった。…そんな顔で。
「…誕生日おめでとう、土岐」
ぽつりこぼれた大地の言葉に蓬生は一瞬呆気にとられた。…そしてはたと、心に引っかか
っていた何かの正体に気付く。
「…なるほど。……練習のお礼やのうて、誕生日祝いやったわけや?」
蓬生が腕を組み、憮然とした顔で鼻を鳴らすと、一方の大地はしてやったりという顔でう
すら笑った。
「まさか自分の誕生日を忘れてた?」
「まさか。…けど、君が知ってるとは思わんかった」
ぶっちゃけ意表を突かれたのだが、それを言うと大地を喜ばせるだけだ。だから言わない。
…ただ、疑問はある。
「なんで知っとったん?」
問いに答えて、大地は胸ポケットから何かを出した。手渡されたものを受け取って、軽く
目を見開き、ついで、ああ、と蓬生は額を押さえる。落としたことにも気付いていなかっ
たそれは、自分の生徒手帳だった。
「昼間拾ったんだ。…そんなところに免許証を挟んでるんだね」
「……。…見たん」
「悪いと思ったけど、一応、持ち主の確認に」
生徒手帳に生年月日を書きこむのは任意なので、蓬生は敢えて記入していない。けれど、
免許証には当然はっきりと書いてある。
「…あんまり悪いって顔してへん」
蓬生がメガネのブリッジを押し上げて軽く睨むと、大地もしれっとした顔で肩をすくめた。
「お祝いしたんだからいいだろう?」
「あれは、練習のお礼なんやろ?」
「…」
一瞬大地は黙ったが、
「そうだな」
さほどの動揺は見せずにぽつりと言った。
その落ち着きぶりが憎らしくて、蓬生は一歩彼に近づいた。
「…てことは、…ちゃんと誕生日プレゼントは他にあるわけや?」
大地は距離が縮まっても逃げなかった。
「……残念ながら、物は何も用意してないよ。…今日知って今日だからね」
まっすぐ見返してくる瞳孔のくっきりした瞳は、既に答えを用意している顔だった。…だ
から蓬生も迷わなかった。
口づける。…深くはしない、ついばむだけ。おとなしくそれに従った大地は、いざ、交わ
りを深くしようと蓬生が唇を開いたところで、す、と押し返すように蓬生の胸に手を置い
た。
「…何?」
「プレゼントは、キスでいいのかい?」
……。
大地の本意を読みかねて、蓬生は無意識に前髪をかきあげた。
「…物はない、言うたんは君やで?…これから買いにいくにしたって、もう店は閉まっと
う時間や」
大地は迷いなくまっすぐに蓬生を見ている。自分が示唆しているのはそのことではないと、
きっぱり言っている眼差しだった。…おもちゃのくせに、と思いながらも、その瞳に目を
奪われている自分を自覚して、蓬生は内心で苦く笑った。
もちろん表面上はおくびにも出さない。余裕を気取ってかまをかけてみる。
「……男同士でキス以上のこと、したことあるん?」
「いや。…でも、おもちゃとしては相応の祝い方だろう?」
「自分で自分のこと、おもちゃ言うか」
「いけないかい?…そう規定したのは君だよ」
「からこうたつもりやったんや」
「…俺にとっては願ったり適ったりだった」
……。
「…今、何て?」
「願ったり適ったり」
「何が」
「君が俺をおもちゃと呼んで、…俺と関わろうとしてくれることが」
闇の中の笑み。暗がりにすっかり目が慣れた蓬生には、その笑顔はひどく鮮やかで、印象
的で。
「…俺は君に興味を持った。…だからあの晩、君を追いかけた。……君を、つかまえよう
と思ったんだ」
ペースを持って行かれた、しくじった、と思いながらもうまく取り戻せない。…蓬生の背
中をぞくりと何かがはい上がる。……それはたぶん、快感と呼べる類のものだ。
大地の声に、眼差しに。…うかうかと、惹かれている。
そう、大地は最初から言っていた。…一方的なおもちゃではない、自分からも仕掛けると。
−……まんまと、仕掛けにはまったわ。
けれど、まだだ。…こんなもので自分をつかまえたと思ってもらっては困る。…駆け引き
は、まだまだこれから。
蓬生はうっすら笑うと、唇に人差し指をそっと当てた。
「…ええよ。誕生日プレゼントにおもちゃを一つ、もろたげる。…千秋と遊ぶ前に、練習
台がほしかったんや」
ことさらに練習台を強調すると、大地は一瞬鼻白んだようだったが、すぐに肩をすくめた。
「悪いけど、思い通りにはならないおもちゃだよ」
「…知っとう」
ふふ、と嗤ったその口で、もう一度大地に口づける。
「……さあ。…どないして遊ぼか?」
深くなる口づけの中、蓬生はゆっくりと脳裏によみがえるメロディを追っていた。
明るく愛らしく、それでいてどこか薄暗さをはらんだようなその曲は、…タイトルを『人
形の夢と目覚め』という。