日常

「待て、響也。お前の音がまた走っている。四小節前からもう一度」
東日本大会に向けての自由曲の練習中、律が何度目かのやり直しを要求したとたん、響也
が爆発した。
「いい加減にしろ、クソ兄貴!もう一度、もう一度って、馬鹿の一つ覚えみたいに!いつ
までたってもここのフレーズから前に進めないじゃねえかよ!!通しで弾かせろ、全体を
見ろよ、全体を!」
「個々の不完全な部分に目をつぶったまま全体を見ても意味がない」
響也が激昂しても律は顔色一つ変えない。ただ静かに言葉を返す。
いらっ、と、響也の気持ちが逆立つのが空気で見えた気がした。
「…ああ、そうかよ。…じゃあ、不完全な俺は、今日は個人練習させてもらうわ。…じゃ
あな!」
言うが早いか、響也は荷物とヴァイオリンをがっと抱えて、部屋を飛び出していった。
「響也!」
腰を浮かしかけたかなでを、律が制する。
「追うな、小日向。今日はもう、響也のしたいようにさせよう。頭が冷えればあいつにも、
俺が指摘した問題点がわかるはずだ」
「そうかい?」
大地が静かに問うた。ちらりと友人の目を見て、珍しく律はすぐにそらした。
「…恐らく」
「でも、律くん、響也だけが悪いんじゃない、よね?」
おずおずとかなでが言う。ハルは少し困った顔で、でも不承不承にうなずいた。
「そうだ。…お前達にはそれがわかっているのにな」
律は小さくため息をついている。
重苦しい空気の中、穏やかに声をかけたのは大地だ。
「…律、今日は夕方に用事が入っていると言ってなかったか?」
はっ、とした顔で律は大地を振り返る。大地はさらりと目配せで応じた。
「…ああ」
うなずいて、…律は何か吹っ切れたように肩をすくめた。
「…そうだな、少し早いが、俺も今日はもう寮に戻る。…皆は」
「俺はもう少しここで弾いていくよ。ハルとひなちゃんは?」
「あ、私も練習します。寮だとやっぱり弾くのを気兼ねしちゃうし」
言って、かなではハルを振り返る。振り返られたハルは小さくうなずいた。
「僕も、家では少しやはり。…なので、ご一緒します」
「…そうか。…じゃあまた明日、全体練習で」
そう言い残して律もヴァイオリンケースを手に、部屋を出て行ってしまった。
とたん、そんなつもりはなかったのに残された三人で合唱するかのように同時にため息を
ついてしまい、それがおかしくて少し吹き出す。
「さあ、それじゃ、…響也じゃないけど、通しで一度弾いてみようか。…ファーストがい
なくてやりにくいかもしれないけど、いいかい?」
大地の提案に、二人はそろってうなずいた。
「はい、大丈夫です」
「僕も、問題ありません」
「じゃあ、始めよう。…1、2」
残りのカウントは指で示して、大地はふうっと息を吐くように弓をヴィオラにあてた。
メロディを担当するファーストバイオリンがいないと、やはりどうにもアンサンブルはし
まらない。…が、三つの音はそれぞれ互いに寄り添いあい、支え合うようにして、一つの
糸に紡がれていく。
二回通して弾いてみて、互いに互いの問題点を指摘し合ってから、
「…少し休もうか」
大地は後輩二人に提案した。うなずいたかなでが水筒を取り出し、麦茶を配ってくれる。
ありがたく喉を潤しながら、ふと、少し前から聞いてみたかったことを、大地は口にして
みた。
「なあひなちゃん。…響也と律って、昔からあんな感じ?」
ぽつりと大地が言った。
「あんな感じ?…ってなんですか?」
かなでは少し首をかしげてから、ああと思い当たった顔で、
「けんかのことなら、そうですね、あんな感じです。子供の頃からしょっちゅうけんかし
てました。だいたいは響也がむきになって、律くんにさらっと受け流されて、はい終わり、
なんですけど。とっくみあいの喧嘩は絶対しないし」
「子供の頃から!?」
驚きで思わず大地の声が大きくなったが、かなでは、はい、と笑みさえ浮かべてうなずく。
「少なくともヴァイオリンを始めてからは一度も。指を怪我しちゃいけないって、響也が
向かっていっても律くんが絶対相手にならなかったから」
…ナルホド。
「…ふーうん」
「榊先輩、興味本位でよそのおうちのことに首をつっこむのは失礼ですよ」
ハルがたしなめた。
「何だ。ハルは興味ないのか?」
「あ、ありますけどっ、でも、興味のあるなしと、個人的なことを根掘り葉掘り聞いてい
いかどうかは別の話でっ」
「ほら、興味あるんだ」
くつくつ笑いながら大地が言うと、ハルがむきになって叫んだ。
「だから、僕が言いたいのはそういうことではなくってっ!」
「よしよし、はいはい、落ち着いて。顔が真っ赤だよ、ハル。そんなに興奮しない」
「だ、誰のせいですか、誰のっ!」
「はいはい、俺が悪かった、どうどうどう」
むきーっ。
子供扱いで頭を撫でられて怒り心頭のハルは、それでもいったんぜえはあと息をついたの
だが、かなでの顔をちらりと見るや、ほら!とまた、大地をきっと睨んだ。
「小日向先輩が呆れてるじゃないですか!」
「えー?それも俺のせいー?」
情けない声を出した大地に、かなでが慌てて手を振った。
「あ、いえ、私は別に呆れてるんじゃなくて、ちょっと考えてただけです。…相手につっ
かかられて受け流すって、…やってることはそんなに違わないはずなのに、大地先輩とハ
ルくんのそれと、律くんと響也のそれは、ずいぶん印象が違うなって思って」
「榊先輩のいいかげんな対応と、如月部長を一緒にしないでください、小日向先輩!」
ぴしりとハルが言う。
「ひどいなあ」
大地が苦笑すると、かなでが小さく、あ、そうか、と言った。
「…笑わないんだ」
……?
「…ひなちゃん?」
「律くんは、笑わないんですね。怒ったりもしない。響也がどんなにつっかかっていって
も、いつも静かな顔をしてる。……だから響也が、一人でどんどんどんどん盛り上がって
いっちゃう」
「盛り上がるって、何に?」
「けんかにです」
「…それは、盛り上がらない方がいいのでは」
ハルがまだ少しむっとした顔のまま、冷静に指摘した。
「そうなんだよね、そうなんだけど…。…じゃあ、律くんが、響也につっかかられて、ひ
どいなあ、響也、ってくすくす笑うのを想像できるかと…いわれると…」
言いかけて、かなでは絶句した。ハルも額に手を当てて、何かを想像してみているようだ。
大地も一生懸命かなでが言った状況を思い浮かべてみた。
…。…。…。
最初に音を上げたのは大地だった。
「…だめだ、降参。…無理。そんな想像無理」
「…ですよね」
「こればかりは、榊先輩に同意します…」
三人でがくりと肩を落とす。肩を落としたまま、かなでがぽつりと言った。
「…やっぱり、兄弟だからなのかな」
「いや、ひなちゃん、これはどっちかというと、律のパーソナルに由来してるんじゃない
かと思うんだけどね…」
たぶん、自分が響也の兄だったら、ひどいなあと言って笑えるだろう。律は、ハルが弟だ
ったとしても、笑って受け流すことはできないだろう。他人だろうと兄弟だろうと、同じ
ことだ。
…だが。
大地はかすかに首をかしげた。
「ひなちゃんは、どうして兄弟だからと思うんだい?」
「…え」
ふわふわした髪の毛がひょん、と跳ね、弾かれたように少女は大地を見た。
「…何かある?他人だからじゃなく、兄弟だからとひなちゃんが思うことが、何か、さ」
「榊先輩、だから根掘り葉掘りは」
たしなめようとしたハルを押しのけるようにして、かなでが口を開いた。
「比べなくていいことを比べちゃうんじゃないかなと思うんです。…年が近くて、男の子
同士だから。…周りにいる私たちがじゃなくて、律くんと響也自身が、自分たちで自分た
ちを比べ合って、なんだかがんじがらめになってるみたい…」
「……」
遮られて呆気にとられていたハルが、かなでの言葉に眉をひそめ、口を結んだ。大地もゆ
るりと腕を組む。ずっと側にいた幼なじみの言葉から想起する兄弟の姿は、大地が想像し
ていたよりも根深い歪みを抱えているように思える。
それが単なるかなでの思いこみならばいいのだが。
「…」
重苦しくなった空気を吹き飛ばすように大地は一つ息をついて、…打って変わってからり
とした声を出した。
「…そうだな、確かに。他人よりは兄弟の方が、どうしても自分たちを比べてしまうかも
しれないね。でも、他人同士でも、その存在が身近だと比較してしまうんだよ。俺たちな
んかがいい例だ」
「…俺たち?」
目を丸くするかなでに、大地はウィンクを一つ投げる。
「俺の母もハルのお母さんも女の子がほしかったのに出来たのは男一人だったもんで、同
病相憐れむ状態で仲が良いんだ。子供の頃はよく、『ハルちゃんはあんたより二つも小さ
いのにお利口でかわいくって』ってぶつぶつ言われたっけな」
嫌な話を、という顔で、ハルが少し顔をしかめた。気にせず大地は話し続ける。
「これがまた、今もそうだけど、小さいときのハルはもっと女顔で、女の子用の着物がよ
く似合ってね。いい着せ替え人形にされてたよな、ハル?…俺は子供の時から色黒だし、
ガタイもでかくて骨っぽかったからそういうことが一切似合わなくて、お袋がハルをうら
やましがってうらやましがって」
ついにこらえかねてか、ハルが大地の言葉を遮った。
「うちだってさんざん言われましたよ。というか、今も言われてますよ。大地くんはあん
なにかっこよくて男前なのに。あなたももう少しなんとかねえ、とかって。……っ、じゃ
なくてっ!なんでこんな話になってるんですか!部長と響也先輩の話をしてたんじゃなか
ったですか!?」
「よそのおうちのことに首をつっこむのは失礼とか言い出したのはハルだろう?」
「そ、それは、…それはそうですけどっ、そうじゃなくてあのっ」
ついにかなでがぷっと吹き出し、くすくすと笑い始めた。
「女の子の着物を着たハルくん、見たーい。写真とか残ってないんですか?」
「こっ、小日向先輩っ!」
「探せばあるんじゃないかなあ。あったら今度持ってきてあげるよ」
「榊先輩!余計なことはしなくていいんです!!」
「えー、見たい見たい。持ってきてくださいね、先輩!」
「了解」
「さーかーきーせーんーぱーいー!」
空気が少し柔らかくなってきた。
「さあ、休憩はこの辺にして、もう一回合わせてみようか」
はい!と、一つは明るく、一つはむすっと、声が重なる。後輩たちのいい返事に笑顔で答
えながら、大地は胸の内でこっそりと、友人の白い貌を思い浮かべていた。

音楽科棟でハルやかなでと別れた大地は、普通科の図書館へと急いだ。今日は図書館の夏
季解放日だ。古文の宿題に使う本を探していたのだが、市立図書館の方では貸し出し中で
手に入らなかった。学校の図書館も本が残っている可能性は薄いと思いつつ足を運んだの
だが、意外なことに返却が入っていて手にすることが出来た。
「ラッキーだったな」
うんうん、と頷きながら昇降口へ向かう途中、ふと、足が止まった。
「−」
ヴァイオリンの音がする。
しかも、知っている音だ。
どこから聞こえてくるのかはっきりとはわからないが、当たりをつけて駆け出す。図書館
の場所とは正反対の、普通科の一番端。一番上。
「…!」
誰もいない廊下の隅で、響也が一人、ヴァイオリンを弾いていた。
「…こんなところで、一人で弾いていたのか」
「…げっ」
足音高く走ってきたつもりだったが、曲に没頭していた響也には聞こえていなかったらし
い。声をかけて初めて、嫌そうな顔でこちらを見た。
「だ、大地っ」
一応は先輩なのだが呼び捨てられるのにももう慣れた。
「なんでここにいるんだよ、お前っ」
お前呼ばわりも慣れた。…大地は小さく苦笑する。
「おや?俺は普通科の生徒だよ?普通科棟にいてなにか問題があるかな?…音楽科の響也
がここにいることの方こそ、何故と問いたいね、俺は」
「…っ」
返す言葉に困って絶句する響也の前で、大地は荷物を下ろし、ゆっくりと腕を組んだ。
…律やかなで抜きで響也と話したことはない。こんな風に二人きりで話せるのは、めった
とないいい機会だ。
「なあ、響也。…一度聞きたかったんだが、アンサンブルを、コンクールやコンサート用
にかっちりと仕上げるのは初めてかい?」
「…ああ」
大地がじっくり話す体勢になったことを見て取ったのだろう。何かあきらめた顔で、響也
はヴァイオリンを肩から下ろした。
「…なるほどな」
「何が言いたいんだよ」
きつい目で睨み付けてくる。律とも5〜6p身長差がある大地だが、響也は兄よりまだ少
し低いようだ。自分とは10pほども違うだろうか。こうやって面と向かい合うとその身
長差がことさらに意識される。どうやらそれが悔しいようで、上目遣いに大地を見る響也
は大地の言葉以上に不機嫌を募らせているようだ。少しでも彼を苛立たせないようにと、
大地は壁に斜めに寄りかかった。視線が微妙に近くなる。
「響也。…思い出せ。律はお前に、一人だけはしるなと言ったんだ。お前はきちんと曲を
弾きこなせている。それは問題ない。だがまだ俺たちが、…俺やひなちゃんやハルが、お
前の解釈やペースを支えてやれないだけなんだ。…ここでお前が一人で弾いていたって、
アンサンブルの問題は何も解決しない」
大地はじっと響也の瞳をのぞき込んだ。
「一緒に弾こう。…アンサンブルだろう?…俺たちに、お前の音をもっと聞かせてくれ」
「…けど」
響也は一瞬心動かされたようだったが、すぐに悔しそうに目を伏せた。
「律は言ってた。お前だって今言ったじゃないか。俺の音だけがはしってるって」
「まあ、お前の音だけが浮いていたのは事実だ。だが、お前の音だけを浮き上がらせてし
まうのは、俺たち他のメンバーの問題でもある。律は別に、お前だけを責めていたわけじ
ゃないんだよ。あいつが言ってた『不完全』は俺にもひなちゃんにもハルにも当てはまる
わけだ。ひなちゃんもハルも、ちゃんとそれに気付いてる。…あー、まあ、お前だけが気
付けてない、という意味では、お前を責めていたかもしれないな」
「…」
響也は黙りこくり、大地の言葉を反芻しているようだ。
「…だから明日は、逃げずにちゃんとアンサンブル練習にこいよ。相手の音を聞いて、合
わせるためにさ。でないと、アンサンブルはいつまでたってもよくならない。一人がどん
なに上手くなってもアンサンブルは完成しないんだ。…わかるな、響也?」
「…ああ」
ふてくされた様子が消える。ごく素直に響也はうなずいた。ので、思わず大地は油断した。
「よしよし、いい子だな」
うっかり頭を撫でてしまい、
「…っ!一つしか違わないのに子供扱いしてんじゃねえよ!」
かみつかれる。
「おっと、地雷を踏んだ。ごめん」
慌ててホールドアップのポーズを取る大地を響也は嫌そうに睨み付けて、しかし今度は自
分でいらいらをおさえつけた。
小さなため息を、一つ、…もう一つ。
「律も、お前みたいに言ってくれればいいのに」
「ん?」
「あいつはいつも、言葉が足りない」
「はは、確かに」
笑ってから、でもね、響也、と大地は付け加える。
「律は決して嘘は言わないよ。……俺は、平気でつくけどね」
「…あんた」
響也が低い声でうなる。
「おっと、待った。…さっきまでの話に嘘はないよ」
「ああ、わかってる。…けど、そんなしれっと、嘘をつくとか言うなよ」
「何一つ嘘をつきません、なんて、俺が言う方が嘘っぽいだろ?」
それこそ、しれっと大地が返したので、響也は一瞬絶句した。…それから、いらいらと髪
をかき乱して。
「変な奴。律と友達やれるだけあるぜ」
「響也だって17年間律の弟をやってるだろう」
「…俺は別に、したくてしてるわけじゃない。…兄弟って事実から逃げられないだけだ」
大地はふと、片眉を上げた。
「…逃げたいのか?」
「…逃げたいというか、……時々、疲れる」
響也は大地を見ず、ヴァイオリンを小さく撫でた。
「律はさ、みんなが自分と同じだと思ってるんだ。音楽を奏でる人間はみんな、音楽に心
酔して、音楽のためなら全てを投げ出せるものだと思ってる。…そうじゃない人間がいる
なんて、考えもしない。……俺だって、ヴァイオリンは大好きだ。でも、律のようには、
…あんなに何もかもヴァイオリンに捧げてしまうような愛し方は、俺には出来ない。……
それが律には伝わらない」
響也が息を継いだ隙に、大地が言葉を挟んだ。
「伝えてどうする。…律と同じようにヴァイオリンを愛せないと伝えて、伝わったら?」
少し暗い瞳が大地を見て、…ふっと明るく笑った。
「俺は俺なりのやり方で、ヴァイオリンを弾いていく。音楽は好きだよ。今更手放せない」
「…そうか」
それなら、いい。
「正直、ちょっとひやっとしたよ。やめると言い出すのかと思った」
「そっか。…あんたをはらはらさせるのはおもしろいな」
大地は思わずぎょっとする。
「おい。…兄弟そろってお前ら全く。…お手柔らかに頼むよ」
「おう」
聞いているのかいないのか、響也はにやにやと笑っている。大地はため息をついて肩をす
くめた。
「…練習の邪魔をして悪かった。…俺はもう行くよ、明日、待ってるから」
「…ああ」
響也に背を向けると、背後で彼がヴァイオリンを構え直す気配がする。…やがてゆるりと
始まった曲は、今までのものと違って何かを呑み込んだ穏やかさに満ちていた。

学校を出て、途中までは普通に歩いていた大地だったが、ふと時計に目をやって足を速め
る。早足はやがて駆け足に代わり、家にたどり着いたときには少し息が上がっていた。
「ただいま」
診療中の父も、それを手伝っている母も、まだ病院にいる時間だ。自宅の玄関で大地のそ
の言葉に応えるものはモモだけのはずだが。
「お帰り」
ちゃんと人の声で応答があって、食堂からゆるやかな笑みを浮かべた律が顔をのぞかせる。
「なんだ、走ってきたのか?」
「ちょっと予定外のことがあって、少し帰りが遅れたからね。…もう律が帰ってしまった
んじゃないかと思って」
「診察の結果を報告せずに帰ったら、大地の機嫌が悪くなるだろう」
「…そんなことは」
「一度あった」
「一度だけだ」
しぶしぶ大地が認めると、ふわりと律がまた微笑んだ。くつろいだその笑顔に大地は少し
ほっとする。少なくとも、腕の状態はそう悪くないらしい。それでも一応、どうだった、
と問うと、先にかばんを下ろせとまた律が笑う。
大地がかばんとヴィオラケースをおろすと、律がコップに麦茶を注いでくれた。食卓で向
き合って座る。
「どうだった」
「今のところ問題ないそうだ。無茶や油断はするなと釘は刺された」
「…そうか」
大地はふうと息を吐いた。
「課題曲がああだからな。…心配してたんだが」
そうだな、よかった、とけろりと律が言うので、大地は思わずその目の前に人差し指を突
き出した。
「だから、それが油断なんだろ」
律は苦笑して首をすくめ、話題を変える。
「ところで、あの後どうした?」
「三人で四回通して、あと個々人でも弾いてみていくつかお互いの問題を指摘して、今日
のところは終わりにした」
「…三人」
低くつぶやく律に、大地は小さく笑いかけた。
「…残念ながら、響也は結局戻ってこなかった。…でも、普通科の隅っこで一人で練習し
ていたよ。少し話した」
大地の言葉にも、律の表情は晴れない。
「……一人か」
「…なあ、律」
大地は食卓に片手で頬杖をついた。
「響也を責めてもうまくいかないって、お前だってわかってるんじゃないのか?響也の音
が走ってしまうのは俺たちアンサンブル全体の問題だし、誰か一人を責めることが必要な
ら、俺にすればいい。俺ならいくらでも悪者になるよ」
「別に、誰かを悪者にしたいわけじゃない。…響也も、お前もだ」
律は両手の指をくんで、その手を額に当て、うつむいた。
「大地。俺たちはずっと個人プレイだった。弟や小日向と音を合わせていても、いつも俺
の音は俺の音、小日向の音は小日向の音、響也の音は響也の音だった」
大地は何となく、小さな彼らを脳裏に思い浮かべる。小さい子供たちが、小さいヴァイオ
リンを肩に、てんでばらばらの方向を向いて弾いている姿だ。実際はそんなことはなかっ
ただろうと思うが。
「高校でオケ部に入っても、それが全体と個、全体の音と俺の音という印象に変わっただ
けだった。俺はそのことに失望することすらなかった。そういうものだと思いこんでいた
からだ」
だが。そうつぶやいて、律は不意に顔を上げ、まっすぐに大地を見た。
「…覚えているか、大地。お前と二人だけで合わせた最初の曲」
唐突な問いと真摯な眼差しに大地は少し気圧されて背もたれに寄りかかった。しかも、そ
の問いの内容が内容だ。
忘れるわけがない。今も耳に残る音。
「愛のあいさつだろう。…覚えてるよ」
かすかにあごを引いて律がうなずく。
「……驚いたんだ。弾きながら、音がどんどん変化していく。俺は一人で練習していると
きと変わらずに弾いているつもりなのに、どんどん響きが良くなっていく。…まるで、俺
の手を離れてヴァイオリンが一人で歌っているような」
大地は手で口を覆って考え込む。正直、自分のヴィオラはまだあの頃ようやく形になった
ばかりで、律についていくのに必死だった記憶しかない。ただ、確かに一人で弾いている
ときとはちがい、音に余裕があるように感じたが、それは単に律が上手くて、自分の力以
上のものを引き出してくれただけだと思っていた。
「…っ」
いや、そうか。そういうことか。
大地が力を引き出されたと感じたように、律も思いがけない音が引き出されたと感じたの
か。
大地は律を見た。律は静かに笑った。
「俺のヴァイオリンを歌わせたのはお前のヴィオラで、…たぶん、お前のヴィオラにその
力を与えたのは俺のヴァイオリンだったんだと思う」
再び律は両手の指をくんで食卓に肘をついた。口元が隠されたが、微笑みは変わらずそこ
にある。
「あの震えるような心地よさを、俺は今も忘れない。アンサンブルの楽しさを、俺はお前
のヴィオラに教えられた。だから、小日向にも響也にも知ってほしい。一人で弾くよりも
美しい音があることを教えたい。三人でいるのに音はひとりぼっちだったあの頃を、俺は
今少し後悔しているから」
そこでまた少し表情が曇った。
「小日向については余り心配していない。元より素直な性格だし、音を聞いていればわか
る。彼女は早晩気付くだろう。だが響也は、…そう思うと、ついつい、…言いつのってし
まうんだ」
「…いい兄貴なんだな、律」
「…どうかな」
微笑んだ大地に、律はゆるりと首をかしげる。
「たぶん、響也はそうは思っていないだろう」
「…思っていないだろうな。…だがそれは、お前がちゃんと言わないからだ」
大地はまた、人差し指を律の前に突き出した。
「言えよ、律。ちゃんと話せば伝わるんだ。お前はそれをさぼるのがよくない」
「…俺は大地みたいに上手く話せない」
「今言ったように言えばいい。ちゃんと伝わったよ。…あの曲を、弾きたくなった」
大地に言われた言葉で少し拗ねた顔をしていた律が、表情をゆるめる。
「東日本大会が終わったら、全国までに少し時間が出来るはずだ。…また、時間を作って
一緒に弾こう」
「…ああ、…そうだな」
大地は笑った。…その約束は果たされるはずだとそのとき彼は信じていた。

モモの散歩がてら、律を寮の近くまで送った大地は、手早く一人で夕食を取ると、猛然と
アルバムをあさりはじめた。
「うーん」
十数分の奮闘の後、大地は多少不満げなため息と共に一枚の写真をアルバムから取りだし
た。
大地とハルが並んで千歳飴を持っている。大地は半ズボンにジャケットだが、ハルは肩揚
げした赤い着物に被布だ。見た人は間違いなく、二歳差の兄妹の七五三写真だと思うだろ
う。
「七歳の時のハルのもあったはずなんだけどな」
三歳の時は何も気付かず言われるがまま着物を着たハルも、七歳の時にはさすがに怒りま
くって大暴れした。…が、結局押し切られて桃色の着物を着せられて写真を撮ったはずだ。
うれしがって母が写真をもらってきて、なぜか大地のアルバムに貼っていたはずなのだが
見当たらない。
「まあいいか、これでも充分ひなちゃんを喜ばせられるだろう」
きっと彼女は、ふわふわ笑って大喜びしてくれるだろう。ハルはさんざん怒ってかみつい
てわめいて、それでも結局、昔母親達に押し切られたように、写真を見たがるかなでの笑
顔を見て、抵抗をあきらめるだろうと思う。そこに響也がいらぬちょっかいをかけて二人
がけんかを始めて、律は我関せずという顔で麦茶を飲んでいる、という五人の姿が目に浮
かぶ。
「…五人」
五人。まったく別々の個性、別々の音。
今はまだ、アンサンブルとして曲を完成させるのがやっとで、互いの音を互いから引き出
して響き合うレベルには至っていない。
東日本大会を前にして、正直かなり心許ない状況なのだが、不思議と大地の中に不安はな
い。
「……やれやれ、律のことは言えないな。俺もかなり楽天的だ」
だけど大地は知っている。
自分たちは、律への信頼という固い絆でつながっている。あの響也でさえ、音楽を律のよ
うには愛せないという表現で、律への信頼を語る。
だからきっと、そう遠くない日に、自分たちの音は響き合うのだろう。…律と共に。
「…ああ。…五人で弾きたいな」
ぽつりと大地は言った。
ヴァイオリン三挺、ヴィオラ、チェロという変則的な構成では、五人で弾ける楽譜を探す
のは難しい。だが、どこかにないだろうか。この五人で一つになれる曲、響き合える曲。
「…」
ふいに、大地の脳裏にひらめいた曲があった。一度。…たった一度だけ、その編成を見た
ことがある。
それは、律の初めてのアンサンブル。まだ自分はステージに上がれるほどの技量がなくて、
先輩達に囲まれて光の中にいる彼をただ眺めているだけだった。あのとき、律は確か、サ
ードヴァイオリンとして舞台に上がったのだ。
ふいに、乱雑な棚が脳裏に浮かぶ。めくらめっぽうに楽譜がつっこんである部室の棚だ。
…もちろん、確証はないが。
「あるかもしれないな、あそこになら」
探してみよう。

五人で、威風堂々と決戦の舞台に立つその日を目指して、…今日も日常は続いていく。