野分

それは、忍人が岩長姫の元に入門してまだ一年とたたない、穏やかな秋の日の朝。
食事を終えた柊がゆるりと窓越しの空を見て、
「野分が来ますね」
ぽつりとつぶやいた。
さっと周囲に緊張が走るのを見て、忍人は怪訝な顔をして、窓から見える空を見た。きれ
いな秋晴れで、雲一つ見あたらない。
不思議そうにしている忍人の気配を察してか、風早がこっそり耳打ちしてくれた。
「柊の天気予報は当たるんですよ。不思議なくらいね」
「いつごろ来るんだい、柊」
静かに問うたのは師君の岩長姫だった。
「夜半にはひどい風と雨になるでしょう。夕方にはもう危ないと思います」
「わかった。すぐ宮へ出向こう。柊、ついておいで。道臣、こっちの屋敷の備えはあんた
に任せるよ。羽張彦、風早、姫君たちのところへ参じたいかも知れないが、道臣を手伝っ
てやってからにしておくれ。昼過ぎに参じても問題はないだろう」
「承りました」
「はい、師君」
「しょーがねーな、…あいてっ」
最後のあいてっ、は粗忽な羽張彦が岩長姫からくらった一撃でもらしたものだ。
「しょーがねーな、じゃないよ。兄弟子なんだから、しっかり忍人の見本になってやりな」
「まあまあ師君。こうなってはいけない見本が一人くらいいた方が、おっと、…!」
柊はさすがに最初の一撃はよけたが、足元は注意散漫だったようだ。無言ですねを押さえ
ている。
「まったくどいつもこいつも」
岩長姫は、はあ、と深いため息をもらして。
「行くよ、柊」
次の瞬間には颯爽と歩き出していた。痛がったのが嘘のような動きで柊が後に従う。
風早と道臣が苦笑を交わし合うのを見て、忍人も少し笑った。

柊の予報はやはり外れなかった。
あちこちに補強をし終えて、風早と羽張彦が足早に出かけていったのは午後も遅い時間に
なった。その頃にはひどい風が南から巻くように吹いてきていた。
日が落ちて、やがて、雨。そして、また大風。大雨。雨粒が打ちつける音が耳に痛いほど。
夜半に、雨はいったんやんだ。だがまだひどい風だ。野分が過ぎたわけではないだろうと
道臣が眉を寄せたそのとき。
…どこかで、扉が開いて風が大きく吹き込む気配がした。
「……?」
道臣はがばりと寝台から起き上がった。
確実に備えたつもりだったが、どこか不備があっただろうか。どこの扉が?
慌てて廊下へ出る。…だが、風が吹き込む気配はない。
…気のせいだったのか?
…いや。
道臣は眉をひそめた。
風が通っている。どこかから、確実に。
道臣は風を追った。風は、中庭に続く扉から吹いてくるようだ。
「…!」
確実にかんぬきをかけたはずの扉。そのかんぬきが外されている。
かんぬきをかけようかと思って、道臣は少しためらい、…扉を開けた。
ごう!とものすごい風が吹き付けてきて、思わず腕で体をかばう。すがめた目に、驚いて
振り返る小さな姿が見えた。
「…道臣殿!」
「…君でしたか、忍人」
扉を閉めると、行く場所を見つけて暴走していた風は落ち着いた。忍人は庇の下で申し訳
なさそうな顔をして縮こまっている。
「すみません、あの…」
「どこかから風が吹いた気がしたんですよ。どこか、補強に不備があったかなと思ってね」
おっとりと道臣が言うと、すみません、ともう一度忍人は言って、ぺこりと頭を下げた。
「…どうかしたんですか?」
問われて、忍人は恥ずかしそうに少しうなだれる。
「いいえ、ただ。…風を、感じたくて」
「…?」
「家では、こんな風の夜は絶対外に出してもらえませんでした。そもそも母が不安がるの
で、母についていなければならなかったんです。…だけど、…今日は誰も外に出ることを
止めないかと思って、…つい」
こんな風を浴びるのは、初めてです。
きらきらした瞳で、渦を巻くような猛烈な風を見上げてから、…忍人はおずおずとまた道
臣を見上げてよこした。
「…なんです?」
道臣が問うと、
「…お叱りにならないのですか、道臣殿」
彼にしては珍しく、もぞもぞとつぶやいた。
「…叱る?…なぜ?」
「…せっかく備えをした扉を開けて、こんな夜中に外に出ているのは、いいことではない
でしょう?」
道臣は苦笑しながら、そうですね、と言った。忍人が首をすくめようとする前に、でもね、
と付け加える。
「私は少し、なつかしかったのです」
「…なつかしい?」
「私も君と同じで、…いいえ、きっと君以上に箱入りで、こんな夜は決して外に出しても
らえませんでした。君よりずっと大きくなってから、師君の元に入門したのに、ですよ。
だから、初めてここで野分を体験した晩、私も君のように部屋を抜け出して、雨と風を見
に来たんです」
忍人は丸い瞳をなおさらにくるんと丸くした。
「…そしたらね」
道臣が少し声を落としたので、風で聞き取りにくかったのだろう。そっと身を寄せてくる。
「ぼうっと風と雨を見ていたら、今の君と同じで、師君に見つかりました」
忍人は首を縮こめた。そしておそるおそる、という様子で聞く。
「先生は何と?」
「あんたも男の子だったんだね、とおっしゃいましたよ」
…それだけでした。
「お叱りにはなりませんでした。気が済んだら部屋に戻りな、戸締まりをお忘れでないよ、
と」
きっと道臣がひどく叱られたことを想像したのだろう。忍人は少し拍子抜けした顔でいる。
「…師君はたぶん、少し心配しておられたのでしょう。私が、良い子でいることに慣れす
ぎていることを。あんたも男の子だったね、とおっしゃったときの師匠は、少しほっとし
たようにも見えました」
道臣はそう言って、忍人を見下ろした。忍人は視線をまっすぐに受け止めて、道臣を見上
げる。
「…私も少しね、ほっとしています。…君が、大人になることを急ぐばかりでなく、ちゃ
んと男の子らしい部分を残していることを」
そう道臣に告げられた忍人は、なんともいえない顔をした。恥ずかしいような、いたたま
れないような、くすぐったいような、それら全てが混じり合ったような。
「…今しばらく、君はまだ子供でいてもいいと思いますよ、…忍人」
「……はい」
びう、とまた強い風が吹き始めた。雨が混じる。野分はまた、動きを変えたのだろう。
道臣は衣の袖で少し身をかばう。
「…まだここで風を見ますか?…私はもう中に入りますが、戸締まりをお願いしてもいい
でしょうか、忍人?」
「はい。…けれど、私ももう中に入ります」
道臣を風からかばうような位置に立とうとする忍人に、道臣はそっと、その矜持を傷つけ
ぬよう気遣いながら、逆に彼をかばう位置に移動する。
「いいのですか?」
「はい。…野分はまた、来年も来るでしょうから」
また来年、風を見ます。
道臣が苦笑して、忍人は少し舌を出す。…二人はそして、扉をきっちりと閉め直した。