ぬるま湯と三日月


抱きしめ合い、上掛けもきっちりとかけているのに、夜気にさらされている裸の肩がひや
りと寒い。…もうそんな季節になったのだな、と、大地の腕に額を預けたまま、蓬生はぼ
んやりと思った。
抱き込まれている身体はあたたかく、風邪をひくとは思わないが、肌と肌との間にひんや
りした空気が忍び込むのが嫌で、大地の胸に胸を押し当てたら、無意識だろうか、眠って
いるはずの大地がもそりと腕を動かして、もっと、と、蓬生を己の方に引き寄せた。
包み込むようなその抱擁は、親パンダが子パンダを抱き込むそれに似て、…蓬生をうっす
ら苦笑させる。

……初めて大地に抱かれたとき、彼は蓬生の物慣れない様子にひどく驚いたようだった。
彼は恐らく、蓬生が女性と(あるいは男性と?)の経験が豊富だと思いこんでいたに違い
ない。…だが、その実は違って、蓬生は、誰かとキスやハグ以上のものを交わすのは大地
が初めてだった。
口ぶりと行動のギャップに毒気を抜かれたのだろうか。初めての大地とのセックスは、労
るように優しく、時間をかけた丁寧なものになった。そして、一事が万事とはよく言った
もので、その後呆れるほど身体をかわす行為を重ねたにも関わらず、大地は一貫してそう
いう態度を取った。
いつも優しく、庇護するように慈しむように、大地は蓬生を抱く。まるで、蓬生のことを
ビスクドールか何かと考えているかのように。蓬生が少しでも、喉を詰まらせるような苦
しげなうめきを上げると、彼は動きを引き、あるいは止め、なだめるように髪を撫でた。
優しくて、優しくて、…その優しさがじれったくて、蓬生は時折、乱暴なセックスをねだ
る。…ねだれば大地はそれに応えてくれるが、それでも必ず、最後は優しいハグとキスで
終わるのだ。

今夜もそうだった。
いじめて、とねだった蓬生に、大地は目を細めて、さんざん言葉でなぶったあと、頂点に
は決してたどり着けないように快楽の芯を戒め、昂ぶりを押しとどめ、焦らして、蓬生が、
ごめん、もうあかん、と目尻に涙をにじませて音を上げるまで望み通りにいじめてくれた。
けれどもそれは決していたぶるようなたちの悪いものではなかったし、終わってしまえば
あたたかい腕に包まれて癒される。

−…ぬるま湯、みたいやなあ。

蓬生はほつり、思う。
熱い湯ならば、のぼせてさめて、きっぱり湯船からあがるきっかけがつかめるのに、あた
たまったのかあたたまっていないのかがあいまいなぬるま湯の恋は、湯船から出てしまう
にはまだ身体がつらいようで、そのくせ湯船の中はゆらゆらと生温かく、快適と称するに
は少々中途半端で。
ゆらゆら、ゆらゆら。…いつまでたっても、抜け出せない。
胸を焦がすような熱を望めば、この恋は変わるのだろうか。……それとも。
「……」
壊して、失ってしまうのが怖くて、何も変えられない。今夜もこうして、ぬるま湯に二人、
ゆらゆら、ゆらゆら、肌を重ねて。
「……?」
ふと、蓬生は、大地の肩口に、ついたばかりのような赤い三日月の形の傷があることに気
付いた。爪はきちんと整えたつもりだったが、よすぎて、つい力が入ってしまったら、整
えた爪でも傷はつくらしい。
わびの代わりに、蓬生はそっと、その傷を舌先でなめた。唇でいたわり、頬を寄せ、また
舌でなぞる。
「……大地」
そして、名を呼んだ。ひそやかに、甘く。
「…大地」
呼べば腹の底にわく、埋み火。
「……だい、ち」
快感がよみがえり、声がかすれる。……そのとき、ほとり、……空気が動いた。
「……、あんまり、呼ばないでくれ」
低くかすれるのは大地の声だ。
「…また、ひどいことをして、……君を泣かせたくなる」
「………。ひどいことなんか、せんやんか」
うっとりと笑いながら、蓬生は真上を向いたままの大地のあごに、下からそっと舌をはわ
せた。…とたん、大地の頬がぴくりと震え、彼は唇をわななかせる。
「…ほうせ…」
「……大地は、ひどいことなんかせえへん。……俺が、して、って頼んだときしか。……
せやろ?」
言いながら、蓬生は大地の首にそのかいなを巻き付け、ひしと身を押しつけて、
「…朝は冷えるようになったなあ…」
時候の挨拶のようなことをつぶやいた。
「もう、立冬すぎたもんなあ…。…冬やもん。寒いはずやわ。……大地も寒いやろ」
「…そうだな」
何かをこらえるような声で、けれど穏やかに、大地が答える。
「…少し、冷えるかな」
「……せやろ」
蓬生は薄く笑った。
…その笑みを視界の隅で捕らえたのか。大地がふと、何かに気付いた様子で一つまばたき、
それから眉を寄せた。
彼のかすかな変化に気付いた蓬生の笑みが、ねっとりと、深くなる。

−…聡い、聡い大地。……大地が頭がええこと、……いらんこと言わんでもわかってくれ
てること、知っとう。……わかってるのに、せえへんことも。

蓬生は、大地のうなじで渦巻く癖のある髪を、指先にからめてそっと引っ張った。

−…俺が言わな、君は俺にひどいことせえへん。…なあ、せやろ?……せやから、ちゃん
と言うわ。

「……なあ。……もっかい、して?」
蓬生は笑んだ。
「…して。…ひどいこと。…こうして抱き合うてるだけは、寒いねん」

めちゃくちゃに、して。

吐息のような声でねだれは、蓬生の足に触れている大地の昂ぶりが、ぐん、と熱を持った。
蓬生をぐいと抱き込んだ大地は、呻くような声で言う。
「…てかげん、できない、よ」
……ええよ、と答えるはずの声は、大地の唇の中に呑み込まれた。
波にさらわれるような激しさに、必死で大地にしがみつきながら、また一つ、大地の背に
三日月の傷を付けてしまいそうだと、蓬生はぼんやり考えた。