朧月夜


「菜の花畠に 入り日薄れ 見渡す山の端 霞ふかし……」
低く甘い声が、夕方の庭に静かに流れていく。夏の終わりのこの時期に、彼がその春の歌
を選んだのは恐らく、西の空に今しも落ちんとする大きな夕日と、東の空にぽかりと浮か
ぶ丸い月のためだろう。
「春風そよふく 空を見れば 夕月かかりて におい淡し……」
「……いい声だね」
突然かけられた声に、蓬生ははっきりと眉をしかめた。
「……神出鬼没やな、君は。……まるでここに住んどうみたいや」
「律に湿布を届けに来たんだよ。…すぐ帰るつもりだったけど、歌が聞こえて」
デッキチェアに横たわる蓬生の背後に大地は立っていて、不機嫌そうな蓬生とは正反対の、
穏やかな笑みを浮かべている。
「…どうも俺は、君が歌っているところに行き合う運命らしい」
以前、蓬生がここで「星めぐりのうた」を歌っていたときにも大地はふらりと現れた。恐
らくそのことを指しているのだろう。
蓬生はふんと鼻を鳴らした。
「一回二回行き合うたくらいで、おおげさやな」
その憎まれ口は何も言わずに受け流し、デッキチェアの背もたれにそっと肘を預けて。
「…続きは?」
大地は請うた。
「…知らん。忘れた」
「嘘だろ」
「ほんまに知らん」
ため息と共につぶやいて、蓬生は仰向き、大地と目を合わせた。瞳をのぞき込んで、にや
りと笑う。
「…榊くんが歌詞を教えてくれたら、歌ったってもいい」
「……」
「おねだりするからには、知っとうやろ。…二番」
あごをあげて、んん?と問えば、…苦笑混じりに大地はうなずいた。
「里わの火影も 森の色も 田中の小径をたどる人も」
歌ではなく唱えるようなつぶやきだったが、その声は耳に心地良い。…ヴィオラの音は人
の声に一番近い音域なのだと、…ふとそんなことを、蓬生は思い出す。

−…榊くんの声は、ヴィオラに似とう。

「かわずの鳴く音も 鐘の音も」
静かな声は、空気を震わせ、蓬生の脳内の記憶も呼び覚ました。その声に続く最後の一フ
レーズが、ふと、口をついて歌になる。
「「さながら霞める 朧月夜」」
唱える声と、歌う声の二重唱。大地ははっとした顔になって、…ゆるり、照れくさそうに
笑った。
「…この一声だけで終わりだなんて言わないでくれよ。…せっかく歌詞を教えたのに」
「…案外しつこいな、君も」
からかうように言いながら、…それでも蓬生はすうと息を吸った。
「…さとわのほかげも もりのいろも たなかのこみちをたどるひとも」
蓬生の落ち着いた声がゆっくりと歌い出す。大地は聞き入るように目を閉じ、蓬生も静か
にまぶたを伏せる。
歌っているのは自分だけのはずなのに、朗読する大地の声が重なるような、…そんな幻の
二重唱に酔いしれながら。

……さながら かすめる おぼろづきよ。