●ホタルブクロ●


忍人は朝食の支度をしながら階段を降りてくる足音にふと振り返った。顔を覗かせたのは
千尋だったが、
「おはよう、千尋」
忍人の挨拶が聞こえているのかいないのか、一点を凝視して立ちすくんでいる。視線の向
こう、カウンターの上にあるのは、コップに無造作に生けた数輪の花だ。
「その花が、どうかしたか?」
穏やかに声をかけると、千尋ははっと我に返ったようだ。慌てて笑顔を作って、ううん、
何でも、とつぶやいた。
「この花、昨晩はなかったなと思って」
ああ、と忍人は首をすくめる。
「朝のジョギングの途中で困っているおばあさんに出会ったんだ。手を貸したら、庭に咲
いていたのを切ってくれて、お礼にと持たされた。…あと、おつけものと。冷蔵庫に入れ
てある」
「お兄ちゃんらしい」
くすりと笑いながらも、千尋の視線は花から離れない。
「ずいぶん、その花が気に入ったようだな」
忍人が静かに言うと、
「ちがうの」
千尋は少し硬い声で答えた。
「……気に入ったというわけじゃなくて、…昔、この花に蛍を入れて、誰かが持ってきて
くれたような気がするの」
「……」
かすかに忍人は唇を噛んだ。
「それが誰だったかいつだったか、ちっとも思い出せないけど、…でも絶対にどこかであ
ったことで、…それに、この家じゃなかった気がする。私ももっと小さかった」
泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにして、千尋は忍人を見た。
「…変な感じ。…昔のことなんてちっとも覚えていないのに、どうして絶対あったことな
んて言えるのかな」
「…きっと、本当にあったことだからだろう」
千尋が一瞬期待に満ちた眼差しをしたので、忍人はゆるゆると首を振る。
「俺は知らない。…この家であったことじゃないのは確かだし、俺はこの家で出会う前の
千尋を知らないから。ただ、……この花の名を知っているか?」
今度首を横に振るのは千尋だった。忍人は寂しい目で笑う。
「ホタルブクロ、と言うんだ。この花の中に蛍を入れて光を楽しむ遊びがある。…きっと
誰かが、幼い君にそれを見せたんだ」
「……」
うつむく千尋に、忍人はそっと触れた。
「焦るな。…いつか思い出せる時が来る」
…そう、望まなくともそのときはいつか来る。千尋が全てを思い出し、この家と、この穏
やかな世界を離れる日が。
「…いつか、…蛍を見に行こうか。…みんなで」
のろのろとテーブルに着こうとした千尋の背が痛々しくて、思わず口走った言葉に振り返
った笑顔は花が開くようにほころんでいて、忍人を少しだけほっとさせた。