●擦り傷●


蓬生を駅まで迎えに来た大地の頬に擦り傷があった。
「あれ、どないしたん。男前に傷つけて」
「心にもないお世辞をありがとう」
まず一言ジャブを返してから、大地は首をすくめた。
「昔お世話になった合気道の先生の古希祝いで昼食会に出席したら、いきなり畳の上に投
げ飛ばされたんだよ」
「…………ははははははは!!」
「なんでそこで大笑いするんだ!」
「せやかてそんな嘘くさい理由…っ!」
蓬生が声を笑いで引きつらせて腹を抱えると、大地はがくりと肩を落とす。
「…土岐までそれはないよ……」
「……まで?」
笑いで涙がにじむ目尻を指で押さえながら蓬生が首をかしげると、うなだれたまま大地は
力ない声で言った。
「大学の知り合いはみんな、見るなり『彼女とケンカしたのか』だの、『二またでもかけ
たんだろう、もうちょっとうまく立ち回れ』だの……。…人を何だと」
「…。ま、外から見て自分はそう見えるいうこっちゃな、思て、ちょっと反省し」
くすくす笑いながら蓬生がそう言うと、大地の肩がなおも落ちた。
「…土岐にだけは言われたくないなあ…」
「何で」
「……何で、って」
「彼女がつけたんやないって知ってるはずやから、て、榊くんが言いたいんやったら間違
うてるで。…俺は一番、それを疑う立場や。こうやって年に数回しか会われへんねんもん、
君が浮気しとったかて知りようがない」
「……土岐」
顔を上げた大地に、蓬生はけろりと笑った。
「ま、そんな甲斐性ないことくらい、ようわかってるけどな」
井戸のつるべが落ちるような勢いで大地が再び肩を落とした。
「……いろんな意味で、ひどすぎる……」
「そんなことより早よ行こ。時間もったいないで」
「……うう」
うなだれたままの大地を放置するように、先に立ってすたすたと駅の出口へ向かって歩き
出した蓬生だったが、ふと壁際の写真撮影ボックスの傍で足を止めた。
「…愛されてんなあ、榊くん」
その声はひどくしみじみと、感慨深く。
「…はあ?」
振り返った蓬生は、おもしろがっているようにも、少し寂しがっているようにも見える。
「…その傷。素人の俺が見ても、どこかでこすった擦り傷やってわかるで。彼女がひっぱ
たいた時に爪で傷つけるような切り傷や、ちょっとえぐれた感じの傷とは見た目が違う。
まして、君の大学の人間は皆医者志望…特に君の周りには、外科になろうかっちゅう目標
の奴が多いはずや。傷の見た目と原因くらいある程度診断がつくやろ。…それでも、彼女
にやられたかて聞くんは、何でやと思う」
「………?」
大地は少しぽかんとなった。
「皆、たぶん君が好きやねん。…好きやからかまいたい、からかいたい。…そういうこと
なんやろ。……気持ちわかるわ。君、いつまでたってもからかいがいあるもん」
「……俺って一体」
「みんなのおもちゃ」
「……おもちゃ……」
うなだれ、だらりと垂れた大地の手。…それは一瞬の隙だった。
「…!」
ぐいと引かれ、たたらをふみかけたところを大地は写真ボックスに引きずり込まれた。驚
く暇もあらばこそ、華奢な見た目からは信じられないような力で蓬生に抱きしめられ、吐
息ごと全てを奪うかのように深く口づけられて、理性が飛ぶ。
「……っ!」
息苦しさに胸をこぶしで叩いて訴えて、ようやく口づけから解放されたときには、大地は
声も出せない状態になっていた。
「おもちゃにされてるんは百歩譲って許すけど、…他の誰かにこんなことさせとったら、
許さんで?」
「………」
そんな物好きは蓬生しかいない、と訴えたいが、声が出ない。ゆるく唇を開いて浅い呼吸
を繰り返していると、誘わんといて、と蓬生は嗤った。
「…もっとひどいことしたなる」
ひどいこと、と口では言いつつも、大地をぎゅっと抱きしめ直す腕はやわらかく、改めて
唇を塞いだキスも優しかった。
写真ボックスの外を行き交う人の足音。少し音が割れた、スピーカーからのアナウンス。
否応なく耳に飛び込んでくる真昼の日常の中、カーテン一枚で仕切られているだけで安心
できる不思議さ。
…ようやく互いに冷静さが戻ったのは十分以上もたってから。…一応写真撮って出よか、
と、まんざら冗談でもなさそうな蓬生の頭を、大地は一つぽかりと叩いた。