●掌の温もり● なぜだかとっても苦しくて、胸や喉がしめつけられるような気持ちがした。 息が切ない。目を開ければ厭なものを見そうな予感。鼻をつく匂い。けれどそれが何かは はっきりわからない。確かめるのが怖い。 −…どうしよう。……どうしよう。 怖い。でも終わらない。このままずっとこの状態なのだろうか。 「……っ?」 そのときふっと、ほんのりした熱を感じた。ふうっと息が楽になる。恐怖が薄れ、……僕 は思いきって目を開けてみた。 「……。……あ、れ?」 目の前にあったのは、いつもの木目だ。僕は二段ベッドの下段に寝ている。その上段ベッ ドを支える板だ。…変な匂いもしないし、怖いものもない。強いてあげれば板の木目が目 玉のように見えるけれど、別に怖くはない。見慣れた模様だ。 ……ただ、ぬくもりはあった。ベッドの外に投げ出した左手が、ほんのり温かい。 「……?」 ぼんやりと首をめぐらせると、ベッドの上段に寝ているはずの忍人が、畳の上に座って僕 の手を握ってくれていた。表情に乏しい顔が、僕と目が合うとかすかに笑みを浮かべる。 「……目が覚めたか?」 「……うん」 「…よかった。…ずいぶんうなされていた」 言われてようやく理解する。 −…そうか、…あれは夢か。 「…ごめん。起こしたね」 「かまわない。もう朝だ。いつものランニングに行くつもりだった。…今日は雲が多くて 雨になりそうだし、早めに走ってくる」 立ち上がりかけた忍人の手が、するりと僕の手を残していく。 「……っ」 思わずその手を追いかけてつかんでしまった僕に、忍人は少し驚いた目をして振り返り、 怒るでもなく穏やかに笑いかけてくれた。 「もう少し、手をつないでいるか?」 「…や、ちがっ、……つい、……ごめん」 僕は忍人から手を離そうとしたけれど、今度は忍人がそれを許さなかった。 「二度寝すると、また厭な夢を見るかもしれない。…今朝はもう諦めて、俺と一緒に起き て下に降りよう。他の誰かが起きてくるまで、一緒にいるから」 子供相手のような噛んで含める言い方に、僕はくすぐったくなって小さく笑った。 「…起きて一緒に下に行くけど、忍人は走りに行っていいよ。もう目が覚めたから大丈夫。 …心配かけてごめん」 忍人はにこりと笑い、また手を離した。僕はもうその手を追いかけなかった。追いかけな くても、掌はじわりと温かかった。