●アクシデント●


今日は一番乗りだろうと早朝の部室に足を踏み入れると、既に律がいた。
「おはよう、律、早いな。……何してるんだ?」
脚立の上に立って、本棚に何かを押し込みながら背を向けたまま律は応じた。
「大地か?おはよう。…必要な楽譜があって抜いたら、他の楽譜まで落ちてきたんで戻し
ているところだ」
ふう、と息を吐いて、
「…いっぱいになってしまったな。音楽科の図書館の、楽譜用の書庫に少し引き取っても
らえるといいんだが」
不安定な態勢で楽譜を押し込みながら話す律に、大地は少し眉をひそめた。
「…代わろう。俺がやるよ」
「必要ない。もう終わる…」
律がそう言って体勢を変えようとしたときだった。
一晩閉め切ってよどんだ空気の入れ換えのためにと開けてあった窓から、突如猫が飛び込
んできた。何かから逃げようとしているのか、飛び込んでしまったことに自分で驚いてい
るのか、向きを定めず突進して律の脚立にぶつかり、ぶぎゃあと鳴いて走り去る。
猫にぶつかられた脚立がぐらりと揺れた。
身体がかしぐ。

…!……落ちる…!!

あの階段での恐怖がよみがえり、頭が真っ白になる。とっさに腕だけはとかばい、身を固
くした律だったが、しかし、いつまでたっても床にたたきつけられる衝撃も痛みも襲って
こない。
「…っ」
気付けば、背中はがっしりと大きな掌と腕に支えられていた。…はあ、と大きなため息。
…そのまま、両手で抱きしめられて、大地が受け止めてくれたのだと気付く。
「……勘弁してくれ、律。……心臓が止まるかと思ったよ」
「……すまない。……ありがとう」
大丈夫かい、と気遣われながら、何とか脚立を降りる。振り返って改めて見た大地の顔は
白く色をなくしていて、今の一瞬に彼が感じた恐怖の強さを思い知らされる。
「……ごめん」
そっとその額に手を伸ばし、すっとこめかみから頬にかけてを撫でると、ゆるゆると大地
の顔に赤みが戻った。…無事で良かったよ、と低くつぶやく声の暖かい重みが、律の心に
じんわり落ちた。