●白い花● 「花」 ぽつりと蓬生がつぶやいた。 肩を並べて歩いていた大地が、中途半端に音だけ聞こえたのか首をかしげる。 「…何?」 「…いや」 内心の考えがつい口に出てしまったものを、聞き返されると面はゆい。蓬生はやんわり笑 った。 「一瞬花の気配を感じたんやけど、…気のせいやったみたいや」 寮に戻る坂道は塀が続いているばかりだ。そもそも小さな草花は、夜になるとつぼんでし まうことも多い。花など、見当たらない。 大地ならこんな感傷的な言葉を聞けば、不思議そうな顔をしたままさらりと場を流すかと 思ったが、案に相違して、 「花?……ああ」 何だそんなことかという顔をして、ついと手を上にさしのべた。 「土岐。上。…見上げて」 「…は?」 言われて見上げた……というより、見上げて少しのけぞり、振り返るくらいの位置に、塀 の向こう側から大きく枝を張り出した木があった。目につく枝の、そのまだもっと上の方 に、ちらり、ほらり、大きな大きな白い花。 「……泰山木……」 「花が少なくて目立たないけど、あれじゃないか?…遠くから見たら視界に入るけど、近 づくと見落とす位置だし」 理路整然と解説する様子はいかにも理系の大地らしかったが、最後にぽつりと付け加えた 言葉がふと蓬生の耳に残る。 「夏の夜に白い花は、映えるね」 おや、と眉を上げた蓬生に、今度面はゆそうに顔をしかめるのは大地だった。 「…言えよ。…案外ロマンチストなんや、とか何とか」 「……言うてほしそうにしとうから、言うたらん」 くすくすと喉で笑うと、大地はちぇっと子供のように顔をしかめた。 「にしても、よう気ぃついたな。あそこに花が咲いてるって」 そのとき大地は首をすくめて何も答えなかったが、塀の切れ目の門のところまで歩を進め たとき、とん、とそこに掲げてある看板を軽くこぶしで叩いた。 病院の診療内容や診察時間が書かれたその白い看板には、墨文字で黒々と『榊医院』と書 いてあった。