●めまい●


その階段を見るのは一年ぶりで、…何でもないと思っていたつもりなのに、一瞬目眩のよ
うな感覚にとらわれて足がすくんだ。
コンクール会場のホール、楽屋につながる階段は、昼間で、しかも明かりがついているの
になんとなく夜の底に降りていくように隅が薄暗く、足元が悪い。

−…あの日俺は、ここで突き落とされ、手を怪我した。

俺が立ち尽くしたのは一瞬だったと思う。だが、その一瞬で風は動いた。
「…?…」
風は大地だ。俺に触れないように気遣いながら傍らを通り抜け、先に階段を下り始めた。
二段下りて振り返り、明るい瞳で何でもなさそうにはきはきと言う。
「俺が先に行ってもいいかな、律」
情けないほど、ほっとした。…もしもの時は俺が助けると、…そう言ってくれているのだ
と思った。そして振り返れと言わんばかりの視線に促されて後ろを見ると、俺の背後にい
るのは皆アンサンブルのメンバーで、悪意を持った誰かの気配はみじんもない。

−…あの日とは違う。

冷静さが戻った。

−…俺は一人じゃない。今度は皆でつかむ、夏だ。