●人魚姫●


千秋とのいたずらはもうずいぶんやりつくしたような気がしていたけれど、そういえば、
夜のプールに忍び込んだことはなかった。
金網をよじ登り、プールの中に入り込む。
夜のプールの水は、昼見るものと変わらないはずなのに、見た感じの質感がまったくちが
う。もっととろりと、いやぷるんと、まるでゼリーか何かのようで、ふれればはね返され
るのではと思う。
千秋は躊躇なくTシャツを脱ぎ捨てると、ジーンズははいたまま、きれいに水に飛び込ん
だ。そのまま抜き手で泳ぎ出す。見本のようなクロールであっという間に25メートル泳
ぎ切り、また戻ってくる。
「……」
妙だな、とふと思う。いつもの千秋ならこんなとき、「来いよ」と蓬生を誘うのに、今夜
に限って何も言わない。
泳いで戻ってきた千秋は、あと5メートルというところで足をついた。
水にぷかぷか浮きながら、にやにや笑っている。思わず蓬生は問うていた。
「…なあ。…俺の身体のこと、気にしてるんか?」
千秋はあごを上げる。…が、にやりと笑って答えない。代わりにこんなことを言った。
「……知ってるか?……王子が人魚姫を見初めたんじゃない。…人魚姫が王子を見初めた
んだぜ」
「……何の、こっちゃ」
ぽかんとする蓬生に、
「わからんかったらええわ」
と笑って、千秋はまたざぶんと水に潜った。
…また泳いでいってしまうのかと慌ててプールサイドから水面を見下ろすと、目の前に千
秋が顔を出した。
「うわっ」
大声が出た。千秋はそれを見てげらげら笑いながら、プールサイドに上がってきてぺたん
と足を投げ出して座る。
「…気持ちよかったか?…夜のプール」
「別に。…やったった、て気持ちはあるけど、それだけやな」
「……ふうん」
蓬生はじっと千秋を見た。

−……知ってるか?…人魚姫が王子を見初めたんだぜ。

ゆっくり、千秋の隣に腰を下ろす。寄り添うようにもたれかかれば、濡れるぞ、と落ち着
いた低い声。
「ええねん」
蓬生は笑った。
「…濡れても、千秋の体温で乾くやろ」
「……阿呆」
風のない夜に、たぷんたぷんと水面が、千秋の名残に揺れていた。