●冬の海●


冬の、まだ夜も明けきらないこんな朝早くに、船を降りて海辺に出る物好きなど自分くら
いだと思ったのに。
忍人は小さな驚きとかすかな困惑とともに足を止めた。
砂浜の先、東を望む磯にアシュヴィンがいた。岩に寄りかかり、何かを見ているようだ。
寄せる波の音は高いが、武人ならではの勘の良さで、彼は誰かが近づいてきて足を止めた
ことに気付いたらしい。いったい誰が、という様子でかすかに身体をひねり、顔を向ける。
そして忍人と気付いてかすかに微笑んだ。
「…こんな時間にこんな場所で、俺とお前が二人きりでは、密会でもしているのではと怪
しまれるな」
「…戯れ言を」
忍人が眉を寄せると、アシュヴィンは苦笑で目をにじませた。
「戯れ言か。…まあいい。見ろ。お前はいい時間に来た」
アシュヴィンがさしのべた手の先、白々と明るみかけた紫色の空に一条の赤い線。
はっとするような美しさと思いがけない速さで日が昇り始める。
まぶしさに忍人が顔をしかめると、戯れのようにアシュヴィンの手が伸びて指先が髪に触
れ、首筋から襟足、うなじをなでるように通り過ぎていった。
他の誰かなら不快に感じただろうその動きを、何故か拒もうとしない自分が不思議で、忍
人は顔をしかめ続けた。
朝の光のまぶしさが自分にそうさせるのだと、つまらない言い訳を心の中で繰りながら。