●ため息の海● 律は、図書館の窓からぼんやりと雨がそぼ降る夕方の路面を見下ろしていた。全てがブル ーグレーに重く沈む景色の中、ぽつりぽつりと通りかかる傘だけが音符のように色を持っ て目に飛び込んでくる。 先刻から、曲想がつかめそうでつかみきれない。頭の中にはエルガーの「ため息」のメロ ディがゆっくりと流れているのだが、型どおりに通り過ぎていくばかりだ。是が非でもそ の曲を弾かなければならないということはないので、無理に考え込むことはないのだが、 曲の方で勝手に律の中からわき上がってくるのだ。…そのくせ、本質をつかませようとは しない。 −…こんな日もある。 律がため息をついた時、頭の中のメロディと呼応するような足音がゆっくり近づいてきた。 「……っ」 その足音が、律の中のメロディに変化を与える。単調だった曲が、色鮮やかに花開き始め る。 「……律」 穏やかな声に名を呼ばれたとたん、つかめそうでずっとつかめなかったものが、まるで待 っていたかのようにふんわりと律の手の中に落ちてきた。 「……律?どうかしたかい?」 振り向いて見つめてはいるのに、大地の声に応えない律に、大地は一瞬怪訝そうな顔をし たがすぐにふっと理解を浮かべて、 「曲想がわいたんだね」 小さくつぶやく。…そして、たたずむ律の隣でそっと、窓枠にもたれた。 「…律は本当にワンダーランドだな。…ふと気がつけば、何かしら曲想をつかんでいる。 …いつ見てもそうだ」 −…それは、ちがう。 律は曲想の海に溺れたまま、声にならない声で応じる。 −…いつもの俺は、もっともがいているんだ。…けれど大地がいて、その声を聞くと、… 世界が変わる。 「早く聞かせてほしいな、律の音」 −…俺の音だが、…俺と大地の音でもある。…いつかそれが大地に伝わるように弾けると いい。 静かな図書館は律の中でため息の海に変わる。…やがて焦点の戻った瞳で、律は大地に静 かにほほえみかけた。